早いもので,今年も3月が終わろうとしています。
世間では「平成最後」を強調した商品などが増えていますが,平成31年で平成の元号は終了することになります。
次の元号がどのようになるのか,発表が迫っており,気になるところです。
なお,裁判所などの文書では,元号を使用することとされており,弁護士が裁判所に送る書面はすべて元号が記載されています。
事務所の書式も,「平成 年 月 日」という書式になっていますので,新元号が発表されると,書式の変更作業を行わないといけません。
弁護士の仕事をしていると,元号というのは不便なものです。
いちいち漢字と数字の両方を記入にしないといけませんし,「昭和20年生まれの人はいま何歳?」という計算も,和暦西暦対照表などでチェックしないといけません。
昭和ならまだいいですが,明治・大正の資料などがでてくると,いつ頃の話なのか,頭の中でイメージするのに苦労します。
純粋に作業効率だけ考えるのであれば,公文書もすべて西暦に統一してしまったほうがよさそうなものですし,実際に,西暦に統一しようという意見もあるようです。
ただ,なんというか,不便なことは不便なのですが,元号をつかわなくなるのも,それはそれで少し寂しいような気もしてきます。
作業効率や経済的合理性というものを徹底的に追及していけば,多くの伝統は無意味に思えてきます。
年賀状はいちいち手書きで送るのではなく電子メールで一斉送信すれば効率的だという意見も,似たような話かと思います。
ただ,そうやって効率の悪い伝統を全部放棄していって出来上がる世の中は,なんとなく,物寂しく退屈な気もします。
そもそも,元号も年賀状も,こういった伝統というものに効率の話を持ち出すのは無粋なものであって,多少不便でも大事にして味わうのが伝統の持つうま味ではないかと思います。
少し話し外れますが,激安商品を所狭しと陳列することで有名なドン・キホーテが,一度,商品を見つけやすいように綺麗に陳列したことがあると聞きました。そうすると,顧客からすれば,商品が見つけやすくなって売上があがりそうなものなのですが,反対に,客足が遠のいて売上が落ちたといいます。
あのごちゃごちゃと山積みにされた商品の中から自分の欲しいものを見つけるひと手間が,顧客にとってドン・キホーテで買い物をする楽しみの一つとなっていたようです。きれいに陳列されてしまうと,単なるスーパーマーケットと同じで買い物の楽しみを感じられなくなって,反対に客足が減ってしまうことになったといいます。
人間というのは,不便なものは嫌だといいつつ,多少の無駄や不便さがあったほうが面白みや楽しみを感じるという矛盾を抱えた生き物のようです。
元号についても,「不便だな」「いらないんじゃないの?」といいつつ,「次の元号何になるかな?」とお茶の間の話題に楽しむいまの状況が自然な姿なのだと思います。