”入国管理局”から電話がありました

先日、私の携帯に見知らぬ番号から電話がありました。

電話にでてみると、片言の機械音のような日本語で、「こちらは入国管理局で、あなたの提出した書類の期限が迫っていて、この書類を出さないとあなたのビザは失効になって・・・・」というように、在留資格更新手続きを緊急で行うよう促す電話でした。

私は、生まれてこの方ずっと日本人ですので、在留資格の更新など必要になるはずもなく、明らかに詐欺に誘導する電話と思われたので、一笑にふして無視することにしました。

ただ、考えてみると外国籍の方にとっては、このような電話は怖い電話ではないでしょうか。

外国籍の方にとっては、在留資格の問題は、暮らしの基礎を揺るがしかねない大問題です。

もし、私が外国籍で日本に滞在している状況だったら、こういう電話がかかってきたら、驚いて慌てて折り返しの電話をかけてしまい、詐欺にはまったりすることもあるかもしれないなと思います。

特に、日本人の私からすると、かかってきた電話の音声が、明らかにおかしな片言の日本語だと気づきますが、母国語が日本語以外の方にとっては、詐欺電話の日本語が自然な日本語かどうかの判断をすることも難しく、詐欺に誘導されてしまうのではないかと心配になります。

また、政府統計によれば、10年程前は在留外国人の数は210万人程でしたが、昨年には340万人を超えており、日本で生活する外国人の数は年々増加しています。

2019年の入管法改正により、「特定技能」の在留資格が導入され、これまで以上に幅広い分野で外国籍の方の就労が可能となりました。特に、特定技能2号の在留資格では、在留年数の上限が設けられておらず、家族の帯同も認められると聴きます。

こういった政策の動向を見ていると、今後、日本で生活する外国籍の方はますます増えていくのだろうと予想できます。

日本で生活する外国籍の方が増えれば、そういった方をターゲットにした詐欺などの犯罪も増えるのだろうと思います。

こういった詐欺の電話にひっかからないようにするには、何か電話やショートメッセージで、金融機関や公的機関から連絡があった場合に、その通知をそのまま信じて、メッセージを返したり、折り返しの電話をすることはさけるべきです。

そして、政府のホームページや電話帳などで正確な連絡先を確認したうえで、直接公的機関に問い合わせて、本当に何か問題が生じているのかを確認することが大切です。

また、在留資格の更新などについて、もし不安がある場合には、弁護士や行政書士のような士業の人間に日頃から相談しておくことも、良い解決策になるのではないかと思います。

きちんとした、弁護士事務所に在留資格の更新を任せておけば、仮に入国管理局を名乗る詐欺電話が突然かかってきても、先ずは弁護士に相談することで詐欺の電話か、本当に在留資格に問題が生じているのかを判断することもできます。

弁護士法人心でも本社のある名古屋エリアを中心に、外国籍の方からの在留資格に関するご相談を受け付け始めました。

私自身は、在留資格関係の案件は担当しておりませんが、日本で暮らす外国籍の方で、在留資格関係の不安がある方は、日ごろから弁護士事務所などに相談をしておくこともご検討いただければと思います。

 

障害年金の法改正の検討状況について

弁護士法人心では、障害年金の申請のサポートも業務をして行っております。

近頃、障害年金の申請についてご相談に乗らせていただいていると、「来年から、障害年金の制度がかわると聴いた。」というご相談をいただくことがあります。

これは、おそらく厚生労働省・社会保険審議会年金部会で検討されている年金制度改革案に関する話ではないかと思います。

社会保険審議会での検討の内容については、厚生労働省のホームページから第17回社会保障審議会年金部会(2024年7月30日)「障害年金制度の見直しについて」という資料で確認することができます。

検討されている内容はたくさんありますが、特に障害年金の申請を検討されている方にとって、大きな関心をもつ検討内容は以下の二つではないかと思います。

1つは、「障害厚生年金において、保険事故の発生時点を初診日とすることを維持しつつ、延長保護や長期要件を認めるべきかどうか。」というものです。

用語が少し分かりづらいので、問題意識の背景まで遡ってお話します。

まず、前提として、日本の年金制度は、よく2階建てと喩えられるように、国民年金を基本として、厚生年金に加入していたかたには、国民年金(1階部分)に厚生年金(2階部分)が上乗せされてより手厚く保障を受けられる仕組みになっています。

つまり、厚生年金が利用できたほうが、国民年金しか利用できない方よりも、有利になる仕組みになっているのです。

この影響は、障害年金の申請をする場合でも大きく、厚生年金が利用できる場合には、障害等級が3級という比較的軽い症状でも年金支払いの対象と認めてもらえますし、障害等級2級以上の等級と認定された場合にも、支払われる年金額が厚生年金の分上乗せされてより大きな年金額を受け取ることができるようになります。

このように、厚生年金が利用できるかどうかは、年金を申請する人にとって、大きな利害関係がある話なのです。

では、障害年金で、厚生年金が利用できるかどうかがどのように決まるかというと、これは、「初診日」を基準に判断されます。

今の障害年金の制度では、「初診日」に加入していた保険の制度でしか、障害年金を請求できない仕組みになっています。

例えば、うつ病の方が、不眠などの心身不調を訴えて最初に心療内科を令和6年4月1日に受診したとすると、その令和6年4月1日時点で、厚生年金に加入していた場合には、厚生年金が利用できますが、国民年金の加入者だった場合には、厚生年金は利用できないことになります。

ここで考えていただきたいのが、この制度では、長年、厚生年金に加入して厚生年金保険料を払っていた人でも、たまたま、初診日に厚生年金に入っていなかったら、障害年金では厚生年金を請求できなくなってしまうということです。

具体的な事例で考えると、ここにAさんとBさんという二人のうつ病の患者さんがいるとします。

Aさんも、Bさんも、現在52歳で、22歳に就職してから30年間、ずっと厚生年金保険料を納めてきました。

そして、2人は、職場での人間関係の悩みなどから心を病んでうつ病を発症して退職することになりました。

Aさんは、令和6年3月20日に退職し、厚生年金の被保険者ではなくなった後に、初めて令和6年4月1日に病院にいったとします。

Bさんは、令和6年4月1日に病院にいき、その後に、4月10日に退職したとします。

そうすると、同じように長年厚生年金保険料を納めてきて、病気になったタイミングも、治療を受け始めたタイミングも、実態はほとんど同じ二人であるのに、わずかな退職と初診日の時期のずれだけが理由で、Aさんは厚生年金は利用できず、Bさんは厚生年金が利用できるという結論の違いがうまれてしまうのです。

現在、検討されている改正案では、具体的な期間や要件は不明ですが、僅かな初診日のずれだけで、上記のような不公平な格差が生まれないように、厚生年金にずっと加入していた人が、退職した後に初診を受けたとしても厚生年金の利用ができる余地を作ろうという検討がされています。

これは、障害年金の申請のサポート業務をしていて、本当に不公平感を感じるポイントですので、ぜひ、検討に留めず、実際に法改正まで実現してほしいと思います。

2つ目は、 事後重症の場合でも、障害等級に該当するに至った日が診断書で確定できるのであれば、その翌月まで遡って障害年金を支給することを認めるべきかどうか。

これも、事後重症などの専門用語ばかりで、どういう問題なのかわかりづらいですので、具体例で問題意識についてお話いたします。

前提知識として、障害年金の請求は、一部の例外を除き、原則として初診日から1年半経過した日から請求することができるようになります。

また、初診日から1年半たった時点では障害年金を請求しなかった人も、後から症状が悪化した場合には、その時点以降の年金の支払を請求することはできます(これを「事後重症請求」といいます。)。

例えば、Aさんという糖尿病患者さんがいるとします。Aさんは、40歳のころ糖尿病を発症し、病院を受診しました。

Aさんは、初診日から1年半たった時点では、それほど、症状は悪くありませんでしたが、45歳の時には、人工透析が必要なレベルにまで糖尿病の症状が悪化しました。

人工透析が必要になるほどの糖尿病は一般的には障害年金の2級に相当する障害であり、その他の年金受給の条件も満たされていたAさんは、45歳の時に「事後重症」請求をしさえすれば、その時点から年金をもらうことができたはずです。

しかし、Aさんは、障害年金という制度を知らず、「年金は65歳になってからもらうもの」とばかり思って、年金を申請しませんでした。

そして、今は52歳になっています。

このような場合、Aさんは、本当は45歳のときから年金をもらえる病気の状況であったにもかかわらず、52歳以降の分の障害年金しかもらえないことになります。

現在の年金の制度でも、過去に本当はもらえるはずだった年金を、遡って請求する仕組みは用意されています。

しかし、この過去に遡って年金を請求する場合、現行の障害年金制度では、初診日から1年半経過した時点で年金がもらえたと証明できた場合でないと遡って年金を請求することを認めない仕組みなっています。

Aさんのように、40歳から52歳までの12年間の治療期間の途中で、45歳の時点で障害年金2級を貰える症状になったとしても、45歳の時点ですぐに障害年金の請求をせずに、52歳になってしまったのであれば、この場合には、もう45歳から51歳までの期間にもらえたはずの障害年金は諦めてくださいというのが、現在の制度です。

今回の改正案では、このようなAさんについて、45歳のときに障害年金を受給できたことを証明できたのなら、45歳から51歳までの期間にもらえたはずの障害年金についても支払いを認められるようにしようということが検討されています(*なお、時効の問題があるので仮に、この法改正が実現しても、遡れる範囲は5年間に限定されます。)。

この論点については、いろんな考え方ができると思います。現行の仕組みは、行政の制度設計としては一定の合理性があります。

Aさんは、45歳のときに障害年金を申請しようと思えば申請することができたわけですから、52歳まで年金を申請しなかったのはAさんの自己責任であり、遡って年金を支払う必要はないというのも、一つの筋のとおった考え方だと思います。

しかし、そもそも、障害年金の制度というのは、自分自身の身の回りのことを自力で解決することにも困難な障害を抱えた方のサポートをしようという制度です。

相談者の方の話をきいていると、障害の内容や程度は多様ですが、その中には、障害年金の申請が可能であるということを知る機会が十分に与えられない環境にいたり、そもそも障害年金の申請に向けた活動を自ら行うことができないような病気のかたもいらっしゃいます。

このような一人ひとりの相談者の状況と、障害年金の本来の目的を考えたときに、「知らなかった、請求しなかった、それはあなたの自己責任。だから、支払いません。」という割り切った対応でよいのかと、モヤモヤとした思いを感じることは少なくありません。

障害年金という制度は、日本年金機構のホームページなどで公表されていますので、経済的合理性に従って自ら行動できる人にとって、障害年金に関する情報にアクセスすることは容易です。

しかし、障害年金を必要としているのは、障害を抱えて働いたり、通常の社会活動を営むこともままならなくなっている人です。

相談に来られる方のなかには、障害の程度も重く、さらに社会的に孤立していて、身近に親身になって障害年金の申請について情報提供をしてくれる人がいなかった方もたくさんいらっしゃいます。

そういった方から、「お医者さんも教えてくれなかった、市役所の人も教えてくれなかった、誰も教えてくれなかった。私は、ずっとこの障害で苦しんできたのに、やっぱり昔にもらえたかもしれない年金は、諦めないといけないのですか?」と質問されると、弁護士として辛い気持ちになります。

この改正案についても、できることなら、検討にとどまらず、実際に法改正が実現すればよいのになと思いながら期待して見守っていきたいと思います。

それから、令和6年10月現在で障害年金の申請を検討されている方にお伝えしたい点としては、上記で紹介した制度の改正は、あくまで社会保険審議会で検討されているという段階であり、実際に、制度の改正がされると決まったわけではありませんし、どのような制度改正になるのかも、いつ改正が実現するのかもわからない状況です。

適用されるのが厚生年金かどうかなど、受給額に大きな影響がある論点も改正の検討対象に含まれているため、「制度が改正されてから、障害年金を申請した方が良いのでは?」と考える方もいらっしゃるかと思います。

このような考え方を、完全に否定するつもりはありませんが、実現するかどうかわからない制度改正を待って、今実際に行うことができる申請を遅らせてしまうと、改正の動向次第では、待っていた期間の分だけ年金をもらい損ねて、損ををして終わる、一番後悔の残る形で終わる恐れもありますので、方針について慎重にご検討いただければと思います。

 

年齢について思うこと

2か月ほど前にニュースで話題になっておりましたが、2024年7月から新紙幣が使われるようになっています。

私の財布の中には、今のところ見慣れている野口英世さんが並んでいますが、見慣れない偉人の顔が描かれたお札を使う機会も少しずつ増えてきました。

先日、勤め先の大阪駅前第三ビル近くのコンビニで買い物をしていると「新紙幣対応について!」と題した注意書きがだされており「自動釣銭機は1984年発行紙幣は使用できません。」と書かれて、福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石の懐かしい3人の偉人トリオの顔が並んでいました。

1984年といえば、ちょうど私が生まれた年でもあります。子供の頃のお札といえば、この3人だったなと懐かしく思い出しました。また、自分と同い年の1984年発行紙幣たちが、新しい自動釣銭機に受け付けてもらえない旧式として扱われるのをみていると、彼らが40代を迎えて、年老いて衰え戦力外通告を受けたように思えてきて、何とも哀しいような寂しいような気持になりました。

40代というと、転職市場では、昔から35歳限界説や40歳限界説など、年齢とともに労働市場での評価が下がって、企業に採用されることが困難になるといわれてきました。

最近では、人手不足の会社が増えているため、このような限界はもはや過去のものだという話もありますが、ちょうど自民党の総裁選の争点として解雇規制緩和に関する話題もよく目にする時期ですので、労働契約の募集・採用と労働者の年齢に関する法律の話をしたいと思います。

まず、労働市場の実態がどうあるにせよ、法制度としては、年齢による募集・採用における差別的待遇は原則は認められていないことを確認する必要があります。

労働市場のルール作りのための基本となる法律として「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」という法律(もともとは雇用対策法という題名の法律でしたので、こちらの呼称のほうが馴染みがあるかもしれません。)がありますが、この法律の第9条では「(募集及び採用における年齢にかかわりない均等な機会の確保)事業主は、労働者がその有する能力を有効に発揮するために必要であると認められるときとして厚生労働省令で定めるときは、労働者の募集及び採用について、厚生労働省令で定めるところにより、その年齢にかかわりなく均等な機会を与えなければならない。」と定められています。

この法律の定めだけを見ると、厚生労働省令で定められた場合だけ、年齢による差別的待遇が許されないというように読めます。

もっとも、この法9条を受けた厚生労働省令として「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律施行規則」がつくられており、同施行規則第1条の3では「(募集及び採用における年齢にかかわりない均等な機会の確保)法第九条の厚生労働省令で定めるときは、次の各号に掲げるとき以外のときとする。」とされています。

少し、論理的な関係性が読みづらいですが、法9条では厚生労働省令で定めるときは年齢に関係のない均等な機会を与えるべきとされており、この法9条でいう「厚生労働省令で定めるとき」というのは施行規則1条の3に列挙されている例外以外の場合という関係になっていますので、結果として施行規則で認められている例外以外の場合には、募集・採用における年齢による差別的待遇が認められない結果になります。

それでは、この施行規則1条の3の例外にはどのようなものがあるのかについてみてみると、例えば、芸術又は芸能の分野で表現の真実性等を確保のために特定の年齢の範囲に属する労働者の募集・採用を行うとき(3号ハ)、労働基準法などの法令で特定の年齢の範囲に属する労働者の就業等が禁止又は制限されている業務について募集・採用を行うとき(2号)、高年齢者雇用など国の政策にあわせて特定の年齢層の労働者の募集・採用を行うとき(3号二)などは、イメージを持ちやすい例外ではないかと思います。

例えば、演劇で小学生の子供の役を演じてもらう人を募集する際に成人がこられても困るとか、危険有害業務で少年が従事することが禁止されている特定の仕事(除染作業等)の募集に16歳の少年に来られても困るとか、国の政策で60歳以上の高齢者雇用を特に行おうとしているときに40代50代の人に応募されても困るといった場合がこれにあたります。

ただし、一見これらに該当するように思える場合でも、例えば60歳以上70歳以下という特定の年齢層に限定した募集をした場合には、法律違反になるなど、細かなチェックが必要です。

また、「事業主が、その雇用する労働者の定年(以下単に「定年」という。)の定めをしている場合において当該定年の年齢を下回ることを条件として労働者の募集及び採用を行うとき(期間の定めのない労働契約を締結することを目的とする場合に限る。)。」(1号)という例外が設けられています。

これは60歳定年の会社であるため、60歳未満の人に募集をかけるというものです。あくまで、定年の年齢を下回ることを条件とすることが許されるだけですから、「定年まで時間が短くなってしまうので、今回の採用募集は40歳以下の人限定です。」というのは、この例外には当たらず、認められません。

では、いわゆる新卒一括採用の慣行はどこに根拠があるのかというと、施行規則1条の3の3号イに「長期間の継続勤務による職務に必要な能力の開発及び向上を図ることを目的として、青少年その他特定の年齢を下回る労働者の募集及び採用を行うとき」という例外が認められています。

なお、この例外では、①期間の定めのない労働契約の締結を目指すものであること、②業務経験を問わない募集であること、③新卒者以外については新卒者と同等の待遇を保証することなどの条件が満たされている必要があります。

このように、法律の制度面では、年齢による雇用機会の不平等をできるだけ発生しないように考えて制度設計がされています。

もっとも、新卒一括採用や定年制が許容されているので、一旦、新卒採用を逃したり、中高年になって転職をしようとしたときに、採用が厳しいと感じられる現状は、この法律だけではなかなか解消は難しいように思われます。

また、そもそも募集・採用において年齢による均等な待遇を求めることが法律で書かれていたとしても、個々の事案で本当にそれが守られているのかを検証することは容易ではありません。

外部に公表する募集要項には年齢不問と記載して、実際の採用に関する企業側の内部基準では、特定の年齢層の人だけを採用するということがあった場合、証拠の取得の困難さから、なんとも対応が難しいように思います。

これは、年齢だけなく、性別や国籍、人種どのような要素を理由にする採用差別でも同じ問題になりますが、企業内部の採用選考のプロセスは、基本的にはブラックボックスのなかであるため、公平な採用選考の結果、不採用とされたのか、何らかの差別的な処置により不採用とされたのか、不採用にされた側が立証して争うのは、非常に難しい闘いになると思われます。

弁護士として仕事をしていると、「何が真実か?」という問題以上に、「手元にある証拠から、何を真実として証明できるか?」という問題意識を強く持つようになります。

弁護士は当然依頼者の方の主張する事実を信用するのが大前提ですが、その依頼者の主張を裏付ける証拠がなければ、法廷での裁判は証拠に基づいて判断されるため、依頼者の方の期待する結果を出すことが困難になるためです。

この点について、先日、CNNのニュースで面白い記事をみました。アメリカのある黒人男性が本名でエントリーシートを送って不採用にされたため、白人っぽい氏名でエントリーシートを送ったところスムーズに採用面接に至ったため、差別を理由に会社を訴えたというニュースです。

ここまで強く闘う姿勢というのは日本では珍しいように思いますが、労働市場の募集・採用における均等待遇を実現していくには、こういう闘う姿勢も必要になってくるのかなと思うニュースでした。

 

 

 

文化財保護法について 2

先月、京都の祇園祭りとの関係で、文化財保護法についてご紹介いたしました。

実は、8月も文化財保護法にゆかりのイベントがございます。

あまり知られていない記念日ですが、8月には文化財保護法施行記念日がございます。

文化財保護法は、昭和25年(西暦でいうと1950年)5月30日に公布され、同年8月29日に施行されました。

そのため、毎年8月29日は文化財保護法施行記念日となります。

もっとも、この記念日は、国民の祝日に関する法律において祝日にされている記念日ではありませんので、暮らしの中で意識することはほとんどありません。

文化財保護法が作られた経緯は、昭和24年(1949年)1月26日に法隆寺の金堂が焼けたことから、文化財を保護するために法的な制度整備が求められたことによります。

1949年1月の火事をうけて翌年の5月に法律が公布され、8月に施行されているので、迅速に立法における対応がされたのだと思います。

文化財は一度失われると、取り返しがつきませんので、文化財保護法の成立経緯も踏まえて、あらため文化財保護の重要性に思いをはせたいと思います。

なお、1949年というと、当時の歴史的背景を考えると、日本はまだ連合国の占領統治下におかれていた時代であり、政治的にも経済的にも日本が大きな困難を抱えていた時期です。

8月15日は終戦記念日ですが、これは昭和20年(1945年)8月14日に日本がポツダム宣言を受諾し、同年8月15日に終戦の詔勅がなされたことによります。そのため、8月15日は終戦記念日となっています。

1945年8月に終戦を迎えてから1952年まで日本はGHQによる占領統治下に置かれましたが、この間、軍国主義と結びつく恐れがあるという理由で武道や日本神話に関連するものなど、日本の伝統文化にたいする文化面での締め付けもあったと聴きます。そのような制約や、政治・経済の困難を抱えていた時期に、それでも当時の政治家が日本の伝統的な文化を軽視することなく、文化財を保護しようとして文化財保護法を成立させていたことに、深い感慨を覚えます。

なお、戦前には文化財を保護する法制度がなかったのかというと、そういうわけではありません。調べてみると、明治30年には古社寺保存法という法律がつくられて古社寺の建造物や宝物を内務大臣がどのように保護管理するかについての法制度が定められています。

また、昭和4年には国宝保存法が成立し、「建造物、宝物其ノ他ノ物件ニシテ特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範ト為ルベキモノ」を国宝として指定して国外への持ち出しを禁じたり、保護・保存をどのようにするかについて定めが置かれています。

なお、文化財保護法、古社寺保存法、国宝保存法はどれも日本の伝統的な文化財をどのように守っていくかという観点からつくられた法律です。

ただし、法律のつくりをみてみると、ずいぶん書かれ方が違います。私は、法制史の研究を専門的にやったわけではないので、はっきりした理由はわかりませんが、まず法律の第1条の作りが違います。

文化財保護法1条では「この法律は、文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もつて国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献することを目的とする。」として、この法律は何のために作られた法律なのかをみんなが理解できるように趣旨が明記されています。

これに対して、古社寺保存法1条は「古社寺ニシテ其ノ建造物及宝物類ヲ維持修理スルコト能ハサルモノハ保存金ノ下付ヲ内務大臣ニ出願スルコトヲ得」となっており、国宝保存法1条も「建造物、宝物其ノ他ノ物件ニシテ特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範ト為ルベキモノハ主務大臣国宝保存会ニ諮問シ之ヲ国宝トシテ指定スルコトヲ得」とかかれており、いわゆる法律の趣旨は特に記載されていません。いきなり、具体的なルールの記載から始まっています。

古社寺保存法や国宝保存法の書き出しは、いきなり統治機構がどのように行動するのかについてのルールの記載から始まる点で、統治者が統治者の目線で統治のために作った法律という印象を受けます。

他方で、文化財保護法は1条に趣旨規定をおいていて、法律の読み手である国民を意識し、法律の目的とするところを広く国民に周知しようという意図を感じます。

また、文化財保護法4条3項で「政府及び地方公共団体は、この法律の執行に当つて関係者の所有権その他の財産権を尊重しなければならない。」と、権力側が文化財保護を理由に、文化財を所有・保管する私人の権利をみだりに制限しないよう注意がされています。

これに対して、古社寺保存法では7条で「社寺ハ内務大臣ノ命ニ依リ官立又ハ公立ノ博物館ニ国宝ヲ出陳スルノ義務アルモノトス但シ祭典法用ニ必要ナルモノハ此ノ限ニ在ラス 前項ノ命ニ対シテハ訴願ヲ為スコトヲ得」、8条で「前条ニ依リ国宝ヲ出陳シタル社寺ニハ命令ニ定メタル標準ニ従ヒ国庫ヨリ補給金ヲ支給スルモノトス」、9条で「神職住職其ノ他ノ監守者ニシテ内務大臣ノ命ニ違背シ国宝ヲ出陳セサルトキハ内務大臣ハ其ノ出陳ヲ強要スルコトヲ得」と記載されています。カタカナ混じりで読みにくいですが、要約すると、内務大臣が「出陳」つまり、お寺や神社が保管している文化財を博物化に差し出して陳列するように命令ができる仕組みになっています。宗教儀式につかうとかそういう事情があれば例外なので、何か不満があるなら訴えて願出てくれれば検討するし、命令をきいてちゃんと文化財を出陳すれば補給金を支給するという配慮はされていますが、最終的には、出陳しなさいという命令がきたら社寺には従う義務があるし、従わない場合には、内務大臣は社寺に出陳を強制することができますよという内容です。

また、国宝保存法7条でも「国宝ノ所有者ハ主務大臣ノ命令ニ依リ一年内ノ期間ヲ限リ帝室、官立又ハ公立ノ博物館又ハ美術館ニ其ノ国宝ヲ出陳スル義務アルモノトス但シ祭祀法用又ハ公務執行ノ為必要アルトキ其ノ他巳ムコトヲ得ザル事由アルトキハ此ノ限ニ在ラズ」とあり、1年内の期間に限りという配慮がされているものの、主務大臣の命令で国宝を出陳する義務がかされています。

あくまで、個人の感想レベルの話ですが、古社寺保存法や国宝保存法の作りと、文化財保護法の作りを見比べると、「なるほど随分と民主的なつくりにかわったな。」という感想を持ちます。

なお、戦前の古社寺保存法や国宝保存法も、きちんと補給金の支給規定や訴願による不服申し立て制度を整備している点で、決して文化財の所有者の権利を無視しているわけではありません。この点で、戦前は専制的で悪く、戦後は民主化されて良くなったというような単純な比較をするべきではありません。

ただし、同じ文化財保護というテーマの法律の書き方が、戦前と戦後でどのように変わっているのかを見比べると、法律の基本的な設計思想の変化を感じられて、興味深い題材だと思いました。

 

 

文化財保護法について

裁判の手続などで大阪から京都まで出張することが頻繁にあるのですが、毎年この季節は京都駅にも祇園祭りに関連する飾りつけなどが増えていきます。

祇園祭りは京都を代表する歴史の深いお祭りのひとつであり、この季節は京都の市街地が祭り一色に染め変えられたかのような印象を受けます。

京都の地元の方にとって重要なお祭りであることはもちろんですが、全国的にも有名なお祭りで、たくさんの観光客が見物に来られています。

弁護士として法律的な観点からお話をすると、祇園祭りは法的な面でも文化財保護法によってその重要性が認められています。

祇園祭りの山鉾行事については重要無形民俗文化財に、各々の山鉾についても重要有形民俗文化財に指定されています。

このように、重要無形民俗文化財や重要有形民俗文化財という言葉を聴くと、ありがたいもののように感じられますが、そもそも、これらの法律概念がどういう意義をもつものなのかについては、弁護士である自分も、あまり整理して考えることはありませんでした。

普段の業務で私が取り扱う業務のなかでは、文化財に関する事項を取り扱うことがなかったためです。

そこで、この機会に、文化財保護法の仕組みを簡単に整理して、ご紹介してみたいと思います。

まず、文化財保護法は第1条の趣旨をみると、「文化財を保存し、且つ、その活用を図り、もつて国民の文化的向上に資するとともに、世界文化の進歩に貢献することを目的」としてつくられた法律です。文化財というのは、ひとたび失われると取り返しのつかない存在ですので、きちんとみんなで守っていきましょう、そして、文化財を活用してみんなの暮らしを文化的な面で豊かなものにしましょうという法律です。

そして、文化財保護法では保護の対象となる「文化財」を第2条で①有形文化財、②無形文化財、③民俗文化財、④記念物、⑤文化的景観、⑥伝統的建造物群の6種類に分類して定義しています。

すべての用語の定義について触れることは、ここではできませんが、祇園祭りに関連して指定を受けている重要有形民俗文化財、重要無形民俗文化財というのは、この③番目に記載されている「民俗文化財」に該当します。この民族文化財とはどのようなものかというと、「衣食住、生業、信仰、年中行事等に関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術及びこれらに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件で我が国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの」と定義されています。山鉾行事はまさしく「信仰、年中行事等に関する風俗慣習、民俗芸能、民俗技術」にあたりますし、山鉾そのものは「これらに用いられる衣服、器具、家屋その他の物件で我が国民の生活の推移の理解のため欠くことのできないもの」に当たります。

このような、各種の文化財として指定されるとどうなるかというと、文化財保護法で、それぞれの類型の文化財について、どのように保存、管理、活用していく事が適切かについてルール作りがされています。

祇園祭りが指定されている民族文化財についてのルールは文化財保護法の第5章78条から91条に書かれています。

指定を受けることによって、どのようなメリットがあるかについて、詳細に語ると文化財保護法の逐条解説をしなければならなくなりますので、分かりやすい現実的なメリットを挙げると、保存管理にかかる費用について公的資金から援助を受けられるようになります。

まず、文化財保護法78条1項では「文部科学大臣は、有形の民俗文化財のうち特に重要なものを重要有形民俗文化財に、無形の民俗文化財のうち特に重要なものを重要無形民俗文化財に指定することができる。」としており、特に大事なものを「重要」と指定する仕組みになっています。

祇園祭りの山鉾関連の指定はこれに該当します。

そして、「重要有形民俗文化財」に指定された場合には、文化財保護法83条で「重要有形民俗文化財の保護には、第三十四条の二から第三十六条まで、第三十七条第二項から第四項まで、第四十二条、第四十六条及び第四十七条の規定を準用する」と書かれているので、重要有形民俗文化財に指定されたら、重要有形文化財について定められた「第三十五条 重要文化財の管理又は修理につき多額の経費を要し、重要文化財の所有者又は管理団体がその負担に堪えない場合その他特別の事情がある場合には、政府は、その経費の一部に充てさせるため、重要文化財の所有者又は管理団体に対し補助金を交付することができる。」がというルールが適用されることになります。

要するに重要有形民俗文化財になれば、管理や修理にたくさんのお金が必要になって、その文化財の持ち主がさすがにお金を払うのが大変だという状況になったら、日本国政府が、その費用の一部を補助金で支援することができるということです。

また、「重要無形民俗文化財」に指定された場合にも、文化財保護法87条で「文化庁長官は、重要無形民俗文化財の保存のため必要があると認めるときは、重要無形民俗文化財について自ら記録の作成その他その保存のため適当な措置を執ることができるものとし、国は、地方公共団体その他その保存に当たることが適当と認められる者(第八十九条及び第八十九条の二第一項において「保存地方公共団体等」という。)に対し、その保存に要する経費の一部を補助することができる。」とされており、保存のための適当な措置を取るための経費を国が補助できる仕組みになっています。

日本は法治国家であるため、税金で運営されている政府は、なんとなく必要そうだからというような曖昧な理由で、お金を配ることは許されません。そのため、このように誰がどのようなプロセスで必要性を認めて、どのような根拠でお金を配るのかをきちんと法律で決めているわけです。

 

交通事故の過失割合の基準について思うこと

弁護士をしていると、交通事故の相談を受けることも少なくありません。

交通事故の被害に遭われた方は、加害者に対して賠償金の支払いを請求することができます。

一般的には保険会社が支払いをしてくれますが、慰謝料等の支払額を低い水準で提案されることも多いため、弁護士が依頼を受けて賠償金額について交渉するなどしています。

こういった賠償金の交渉をしていて、なかなか難しいと思うことが多いものに「過失割合」というものがあります。

過失というのは、言い換えると不注意ともいえるのですが、交通事故が起きた原因に当事者の不注意があった場合、その不注意の程度に応じて賠償金を減額するという仕組みがあります。

例えば、信号待ちで車を停車させていたところ、いきなり後ろから前方不注意の車に追突されたというような事案であれば、被害者側に事故の原因になった不注意はないため、過失は0%です。

しかし、例えば見通しの悪い交差点で出会い頭でぶつかったような場合には、どっちも不注意だったということで、両方の当事者に過失が認められることもあります。

交通事故は事件の件数が非常に多いため、こういった過失割合の判断について、裁判所や裁判官ごとに判断が分かれたりしないように、いわゆる「赤い本」や、別冊判例タイムズ38号と呼ばれる本などで、「こういう事故の類型であれば、こういう過失割合を目安とする」という基準がつくられています。

交通事故の示談交渉や裁判をすると、基本的にはこの過失割合の基準に沿って、賠償金の過失割合に応じた減額が判断されます。

この過失割合の基準を見ていると、交通事故の被害者の過失割合が0%になる類型というのは、実はあまり多くありません。

先程紹介した停車中の追突事故の場合以外には、こちら側が青信号で相手が赤信号無視だった場合や、明確にセンターラインが引かれている道路で相手がセンターラインをオーバーして突っ込んできたケースなどは被害者の過失割合は0%が原則ですが、それ以外はたいていの交通事故の類型で、被害者側にも何割か過失割合が認められる基準になっています。

もっとも、この過失割合というのは、交通事故の被害に遭われた方の気持ちからすると、非常に受け入れにくいものです。

実際に、裁判などで徹底的に争っても、「赤い本」や別冊判例タイムズ38号などに記載されている過失割合の基準どおりに裁判官が判断することが圧倒的に多いため、弁護士としては「お客様にも、今回の件では~%ぐらいの過失割合が認められる可能性が高いです。」と見通しをお伝えしないわけにはいけません。

ただ、過失割合の基準で被害者側に1割から2割ぐらいの過失割合が認められる事例を見ていると、優先道路を直進していたら脇道から出てきた車にぶつかられたとか(過失割合1:9)、青信号で交差点を通過しようとしたら対向車が右折してきてぶつかられた(過失割合2:8)というように、実際の運転の場面を考えると「これでこっちにも非があるとかいわれても、納得いかんわ。事故の原因は無茶な運転した相手のほうでしょう。」といいたくなる場合が数多くあります。

もちろん、裁判所の判断や過失割合の基準の説明を詳細に読むと、相手方の動きを予想して減速するなどしていたら、結果回避可能性があったという説明などで、理屈はとおっているのですが、実際に自動車を運転する立場で考えたときに、優先道路で脇道を交差するたびに、飛び出してくる自動車を予想して減速していたら、後続車から追突されそうで、余計に危ない気がします。

また、脇道からでようとしている車が見えたときに、優先道路側の自動車がしっかり減速すると、譲ってくれたと勘違いして脇道から車が出てくるのを誘発して余計危ない場合もあるように思われます。

青信号で右直事故の場合でも、中途半端に直進者側が減速すると、かえって右折車待ちの車両の右折を誘発してしまって事故の危険が増すので、右折待ちの自動車を注視しながら、スピードは落とさずに直進するのことが多いのではないかと思います。

交差点を青信号で直進していて、突然、右折待ちの自動車が右折してきてぶつかったという場合、過失割合の基準によれば直進側にも2割の過失が認められますが、実際に自動車に乗ってみると「じゃあ、どう走っていれば回避できたのかわからない。青信号で交差点に進入する場合でも徐行しなきゃいけないのですか?」と思ってしまいます。

こちら側に制限速度オーバーがある場合などは、過失割合と言われても仕方ないと思いますが、こちらが制限速度その他の交通ルールを完全に守って走行していたことがドラレコの映像等から証明できる事例で、相手車両が直前で右折したり脇道から飛び出してきた場合にまで、別冊判例タイムズ38号の基準を持ち出して過失割合といわれると、ちょっと基準が独り歩きしているのではないかと思ってしまうことがあります。

個人的には、別冊判例タイムズ38号や「赤い本」の基準の修正要素の中に、優先道路や青信号の交差点を直進していた制限速度違反その他の道路交通法の違反がない状態で走行していたことが、ドライブレコーダーその他の証拠で証明できた場合には、過失割合を0と認められるような修正要素があっても良いのではと感じています。

ただし、この問題を過失割合の基準の問題で片づけるのも、乱暴な話です。

現在の裁判の仕組みでも、本当にこちら側が制限速度違反など交通法規違反はしておらず、相手が右折や脇道から進入した位置とタイミングが、急制動をとっても事故の結果を回避できない位置であったと証明できた場合には、理論的には注意義務違反は認められず、過失割合は0になるはずです。

しかし、実際には判例タイムズなどの基準どおりの判断に落ち着く場合が圧倒的に多い原因の一つには、そもそもドラレコがついていなかったり、映像が消えてしまっていたり、走行速度が明確には記録されていなかったり、相手とこちらの間の距離などが正確に計測できなかったりと、立証が困難な事例が多いという現状があります。

AIがこれだけ発展している世の中なので、走行速度や周辺車両との距離などを全部自動で計算して記録してくれている、ターミネーターのようなドライブレコーダーが開発されたら、多少高価でも、ぜひ自動車に設置したいなと、夢のような妄想をしています。

こどもの日

毎年5月5日は、こどもの日と呼ばれ、祝日となっています。

国民の祝日に関する法律第2条では、「こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。」と記載されています。

こどもの日というと、鯉のぼり、柏餅、五月人形という印象が強く、男の子のための祝日という印象を持ってしまいますが、法律上は「こどもの日」はあくまで、こどもの日であって、男の子限定の祝日ではないようです。

ちなみに、伝統的には、男の子が五月に鯉のぼり、女の子は三月に雛祭りという区別をして祝うのが習慣だと思いますが、3月の雛祭りは祝日にはなっていないため、法律上は、5月5日が男女問わずこどもの日という理解になるのだと思います。

どうして男の子が5月、女の子が3月というようになったのかについては、伝統的に5月5日は端午の節句として菖蒲湯などをする伝統があったところ、菖蒲から尚武、勝負といった連想ゲームのようになり、男の子が勇ましく育つようにと男の子が主役の日になっていったという説があるようです。

他方で、3月3日はもともと上巳の節句といわれて、中国のほうでこの日に穢れを払うために水で体を洗う風習があったようで、ここに日本で紙の人形を作って厄落としのために川に流す風習や、平安時代ごろに女の子の人形遊びが普及したことなどが組み合わさって、現在の雛祭りの原形が作られていったようです。ひな人形は節句が過ぎたら早く片付けないといけないといったりしますが、この理由も、もともとひな人形が厄落としのために、こどもの身代わりになって厄を負って川に流される人形にルーツがあるからという説がありました。

このように、5月5日は男の子、3月3日は女の子というのは、あくまで伝統としてそういう習慣があったというものであって、法律上は男女平等に「こどもの日」となっています。

また、法律上は、「こどもの幸福」だけでなく「母に感謝する。」することも、祝日の趣旨になっていることも、意外に知られていないことではないかと思います。

親に感謝するのも大切なことだなと思いつつ、お父さんは感謝してもらえないんやなとと少し寂しく思う法律の定めとなっております。男性弁護士の立場としては複雑な心境です。

この辺りは、親の果たす役割に関する社会的性差が強く意識された立法になっているのかと思います。

 

障害者差別解消法の改正について

令和641日から、障害者差別解消法という法律に重要な改正がありましたので、今回はそのことについて紹介させていただきます。

障害者差別解消法は、正式には「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」という名称の法律です。

この法律の立法趣旨は第1条に記載されていますが、その目的とするところは「障害を理由とする差別の解消を推進し、もって全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。」と書かれています。

この法律は差別の解消を目指す法律ですが、この法律なかには「差別」というものの定義はかかれていません。

内閣府のホームページで紹介されている、その他の法令等のなかで「差別」というものがどのように定義されているのかをみると、「正当な理由なく障害を理由とする不利益な取扱いをすること又は社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしない」ことといった内容で定義されていることが多いようです。

この定義をみると、いくつか興味深いポイントがあることに気づかされます。

1点としては「不利益な取り扱い」について「正当な理由なく」といった修飾語がついていることです。理由もなく障害者だからという理由で取扱いに区別を設けることは許されないということです。他方で、「正当な理由」に基づく取扱いの相違は許容されています。例えば、自動車の運転のように一定水準以上の視力の存在が必要であり、なおかつ、視力の不足により事故が発生した場合大きな被害が発生するような分野において、視力に障害がある人に自動車運転免許の取得を認めなかったからと言って「差別」に当たるとは言われないというような話です。

ただし、どのような事情がある場合に、どの程度の取扱いの差を設けることが許容されるのかという問題は、非常に難しい問題です。実際にはこの「正当な理由」の有無の判断は非常に悩ましい場合が多いと思います。

2点目としては、「合理的配慮」が欠けていることも「差別」の一類型として挙げられていることです。

「差別」という言葉をきくと、「お前らは嫌いだ、あっちへ行け」といって石を投げつけるような、積極的な社会的廃除をイメージしてしまいますが、法律の言葉の世界では、「差別」というのはもっと幅の広い概念として使用されており、本来尽くすべき合理的な配慮を尽くさない消極的な態度も時として「差別」と評価されることには、注意が必要です。

今回、法改正が行われたのはこの合理的配慮に関する部分であり、一般企業である事業者(飲食店、旅客運送業、映画館など業種を問いません。)に対して、これまでは努力義務とされていた「合理的配慮」を、法的な義務としたことが、法改正の内容となっています。

82項には、「事業者は、その事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない。」ということが定められています。

法律で使われている言葉、どうも堅苦しくて結局何が言いたいのかわかりづらいことも多いので、内閣府が作成したこの法改正に関するパンフレットを参照しながら、もう少し詳しく紹介すると、まず、基本的な理解として「日常生活・社会生活において提供されている設備やサービス等については、障害のない人は簡単に利用できても、障害のある人にとっては利用が難しく、結果として障害のある人の活動などが制限されてしまう場合があります。このような場合には、障害のある人の活動などを制限しているバリアを取り除く必要があります。」という問題意識が示されています。

この「バリア」というのが、法律でいうところの「社会的障壁」に当たります。そして、合理的配慮というのは、お店側の過剰な負担にならない範囲で、こういったバリアを取り除くよう配慮を求めるということです。

具体例としては、飲食店などで車椅子のまま着席できるように、椅子の配置の変更をすることや、聴覚障害の方とのやり取りのために適宜筆談などを交えて接客するなどが合理的配慮の具体例として紹介されています。

ただし、最終的には、どの程度の負担をすることが「過重な負担」になるのかといった点は、実際に現場判断では迷う点も多いと思います。

結局、不利益な取り扱いにしても合理的な配慮にしても、実際のところ現場で知恵を絞って、「正当な理由」の有無や「過重な負担」かどうかを判断するしかないのだと思われます。

この「合理的配慮」や「過重な負担」について考えるうえで、障害者差別解消法に関するパンフレットの中で紹介されている内容のなかで、多くの人に広く知ってほしいと思った考え方があります。

それが、障害の社会モデルという考え方です。

「障害者」のための社会福祉というと、あたかもそこに「障害者」と「健常者」とが全く異なる集団であるかのよう考えそうになります。

しかし、障害の社会モデルという考え方では、「障害者」と「健常者」とされる人たちとを異質な存在とは考えません。障害の社会モデルでは、「障害」というのは、「障害者」とされる方の精神や身体の特徴だけの問題ではなく、むしろ社会の側に、様々な障壁があることによって生じる問題だと考えます。

パンフレットで紹介されている事例としては、2階に上がるのに階段しかなければ、車椅子の人は「障害」を抱えていることになるけれども、スロープやエレベーターが整備されていれば「障害」はなくなるという例が紹介されています。

私にとって、もっと身近な例で考えると、私は視力が非常に悪いですが、眼鏡やコンタクトレンズで矯正することでなんの「障害」もなく今の社会で生活をすることができています。しかし、例えば将来、資源の不足などで、眼鏡やコンタクトレンズが購入できない社会になった場合には、私はもしかしたら「障害者」になってしまうかもしれません。

このように、障害の社会モデルでは、世の中に「障害者」と「健常者」という別々の二つの集団があるのではなく「障害」というのは、個人の個性と社会の状況が接触し衝突するなかで生じる現象にすぎず、社会の在り方が変われば、それにあわせて「障害者」と「健常者」の範囲はいくらでも柔軟に変わっていくものだと考えることになります。

社会の変わり方によっては、今は「健常者」と呼ばれている人も明日には「障害者」と呼ばれるようになるかもしれないし、反対に「障害者」と呼ばれる人が「障害」を抱えなくなることもありえるわけです。

私が、この障害者の社会モデルに魅力を感じるのは、この考え方が非常に前向きな考え方に思えるからです。

障害者福祉を考えるうえで、「障害者」と「健常者」を別の存在だと分けて考えてると、障害者福祉とは「健常者」が「障害者」を助けてあげる制度なのだというような感覚に陥りそうになります。そして、「障害者」側から、障害者福祉の拡充や、職場やサービス施設などでの配慮や負担を求められると「ずうずうしくないか?」「このくらい我慢すればいい問題ではないか?」というように、「障害者」側を責める発想にもなってしまいそうです。特に、今回の法改正の中で義務化された「合理的な配慮の提供」でも、配慮を求められる側の立場からすれば、それが「過重」かどうかにかかわらず、一定の負担は生じるわけですから、「健常者」が「障害者」を助けてあげるのだという発想で考える限り、配慮を求められことに「負担だ。迷惑だ。」という反感が生まれてしまうのではないかと思います。

これに対して、障害の社会モデルという考え方で「合理的な配慮」について考えた場合、同じ社会に属する仲間の中の、どの範囲の人が「障害」を抱え、どの範囲の人が「障害」を抱えないのかは、社会の側がどこまで配慮して障壁を取り除けるかの次第であるという発想になります。

人の感じ方や考え方は人それぞれですが、私としては「合理的な配慮」について考えるときに「なんで『障害者』のためにこちらがこんなにも負担をしなきゃいけないんだ?」というような気持ちになるより、「どのように社会が変わっていけば、少しでも多くの社会の仲間が『障害』を抱えずに暮らせるだろうか?」と考えた方が、気持ちのうえでも健康にいられそうですし、建設的なアイディアが生まれてくるように思います。

これは、あくまで理想論であって、実際の現場にたって「合理的配慮」を考える際には、お金も時間も人でもすべてが限られたなかで、判断を下さなければならないので、「過重な負担」だとおもってやむを得ずお断りしたサービスについて、「合理的配慮」にかけた障害者差別だと非難されてしまって、憤りを覚えるなど、一筋縄ではいかない問題がたくさん生じるものと思われます。

私自身も、弁護士としての仕事をするなかで、本当に正しい判断を下せるのか不安もありますし、こちら側が合理的と思える範囲を超える配慮を求められたときに、感情的な反発を感じてしまうこともあるかもしれません。

こういう割り切れない問題は、最終的には、現場で葛藤する中でしか答えは出ないだろうと思います。

ただ、そのようなときに「障害の社会モデル」という考え方は、自分の中の思考を整理するうえで有益な考え方になるのではないかと思いますので、ぜひ多くの人に知っていただきたいと思い紹介させていただきました。。

 

 

 

新年度を目前にする3月になりました

1年は12か月あり、それぞれの月に四季折々、それぞれの良さがあります。

ただ、そのようななかでも、新年度を迎える3月から4月への移り変わりは感慨深いものがあります。

大晦日から正月を迎える新年も感慨深いですが、3月から4月への変わり目は、多くの企業や官庁等で人事異動があり、卒業式、入学式、入社式というように、人間関係が大きな変化を迎えるタイミングです。ちょうど、日本の国花の一つである、桜の咲く季節でもあり、桜の下での卒業式や入学式などを思い出す季節ではないかと思います。

このように、1年の年度が、4月から翌年3月で区切られる制度は、法律にも根拠がございます。

例えば、国や地方公共団体の会計年度は、財政法や地方自治法などの法律で会計年度は、毎年4月1日に始まり、翌年3月31日におわるものとすると定められています。

学校の年度についても、学校教育法の施行規則で小学校が4月1日スタートと決められており、義務教育から高校まではこの施行規則の定めを準用していることから、4月1日スタートの3月31日までが1学年となる制度になっています。

このように、4月1日が1年度のスタートとされているのは、世界的に見れば決して普遍的な現象ではありません。

会計年度については、多くの国ではわかりやすく、1月~12月で1年度を数えています。日本でも、所得税などの税金の課税については1月~12月で計算をしている例があります。

また、学校の年度については、欧米の学校では9月入学を採用しているところが多いようです。

日本の大学でも、留学生獲得の便宜を考えて、9月入学を実施しようとするという試みもあるようですが、少数派です。

外国との交流には多少不便かもしれませんが、日本の社会の多くの局面で、3月に年度を締めくくって4月に一斉に新しい年度を始めるという運用は、慣れ親しんだ身からすると、便利で居心地が良いように感じます。

ただし、弁護士の業界については、例年12月に修習が終わり12月中に一斉登録をして、12月末から1月にかけて新しい弁護士が実務につき始めるというスケジュール感になっていますので、少しことなるタイミングで節目があることになります。

 

 

 

日本語の表現のむつかしさについて

最近、大阪では次々に新しいビルが建てられています。弁護士法人心は梅田エリアにある大阪駅前第三ビルというビルに入っていますが、梅田エリアだけでも、ここ数年を振り返っただけで何棟もの大きなビルの建設がされています。

特に、いわゆる梅北エリア周辺は開発の勢いが著しく、次々に新しいビルが建っている印象です。

先日、このようにビルがどんどんと増えていく様子を人に説明するのに、「まるで雨後の筍のように」という表現を使いました。

ちょうど、今年も、そろそろ筍の旬まであと少しという時期ですが、雨が降った後に筍がたくさん生えてくることからこのような比喩表現が使われるようになったようです。

日本語の慣用表現としては、比較的よく登場する比喩表現なので、説明した相手の人にも、この表現の意図はちゃんと伝わったのですが、「雨後の筍」という言葉を言い終わってふと気づいたことがあります。

私は、ビルが建設されている様子は何棟も生活のなかで目にしてきましたが、地面から筍がたくさん生えてきた様子というのは、実生活のなかで体験した記憶がありません。

この時話をしていた相手の方も、実際に実生活で筍が生えてくるところを目撃したことはないようです。

通常、比喩表現というのはイメージし難い物事を、より身近でイメージしやすい物事に喩えることで、相手の理解を促進するために行う表現の手法です。

今回の私の発言の場合、実際に日常生活の中で目にしている「ビルの建設」という現象を、慣用表現として抽象的には意味は理解しているものの、実際には目にしたことのない、「雨後の筍」という言葉で喩えており、本来の比喩の効果が発揮される局面とは本末が転倒しているように思われます。

おそらく、「雨後の筍」という表現が生まれた頃には、日本社会全体で、農村人口も多く、また、都市部にも竹藪などが点在していて、筍が生えてくる様子を日常生活のなかで目にする機会も多かったのだと思われます。

以前、ブログでお話した「秋の夕日はつるべ落とし」という表現もそうですが、生活スタイルの変化の中で、日常生活からはイメージが湧きにくくなってやがて消えていく言葉や表現というものがたくさんあるのだろうと思います。

このようにノスタルジーを感じる日本語表現について考えながら、弁護士として仕事をするうえで注意をしなければならないと思うことが、こういった、比喩表現などの慣用表現を、どこまで仕事で使う文章に記載してよいかという点です。

特殊な比喩ではなく、慣用表現として書籍などでも紹介されているような比喩表現であれば、状況の説明のために裁判等の文章のなかで書いても、ダメということはないように思われます。

ただし、比喩表現というのは、論理的に説明を積み重ねて相手に理解してもらう構造はもっておらず、あくまで「Bについてイメージをもっている人に対して、AをBに喩えることで理解を促進する」という構造で機能するものです。

そのため、読み手が「B」についてどの程度、具体的なイメージを持っているかがわからない状況で使ってしまうと、かえって読み手を混乱させ理解の妨げとなる恐れもあります。

そのため、仕事で書く文章では極力使用を控えたほうがいいのだろうかと思っています。

これとよく似た問題として、擬音語・擬態語などのオノマトペの使用も、どの程度まで許容されるかと悩ましく思います。

「ドンっと後ろから突き飛ばされるような衝撃を感じた」、「被害者の両手をロープでグルグルとしばって拘束したうえで、室内の貴重品を物色した」というような表現は、陳述書などでしばしば目にしますし、私も、よくこのような表現を使います。

しかし、こういった感覚的な言葉は便利なのですが、「ドンっ」、「グルグル」という言葉の語感を共有していない相手には、全く理解できない表現になるはずです。

特に、外国人の方など日本語のネイティブ以外には、この日本語のオノマトペの感覚は理解しにくいとも聞きます。

この点で、不特定多数の誰が読んでも、同じ理解に至れることができる分かりやすい文章を目指すのであれば、比喩表現やオノマトペの使用は控えた方が良いのだろうと思います。

ただ、「グルグル」巻きの状況を「グルグル」という言葉を使わずに説明しようと思うと、「幾重にもロープを重ねて・・・」、「ロープも何周も回しかけて、何重にもして・・・」と、なんとなくぎこちない文章になるように思います。

結論が出せる問題ではないと思いますので、これからもあれこれ悩みながら文章を考えていきたいと思います。

裁判所はどこにあるのかについて

弁護士の仕事というと裁判所に行って法廷でいろんな手続きを行うイメージがあるのではないかと思います。

テレビドラマなどで弁護士が出てくるシーンは、法廷で証人尋問をしていたり、「異議あり」とやっていたりするシーンが多いことから、そのような印象が強いのではないかと思います。

実際には、弁護士の仕事場所は、裁判所の法廷に行く仕事以外にも、自分のデスクで書面を書いたり、区役所に出かけて行って市民法律相談の担当をしたりと多種多様です。ただし、弁護士が、仕事で頻繁に裁判所に行くこともまた事実です。

ところで、一口に裁判所といっても大阪府内だけでもいろんな場所にいろんな裁判所があるのをご存じでしょうか。

裁判所には取り扱う事件の内容ごとに区別があります。また、場所も区々です。

イメージしやすい裁判所の事件としては、貸したお金が返ってこないから相手を訴えるであるとか、テレビドラマに出てくるような刑事事件ではないかと思いますが、こういった事件は、地方裁判所で審理が行われます。

ただし、金額が少額の事件などは簡易裁判所というより小規模で地域に密着した裁判所で行われることもあります。

また、離婚などの家庭に関する事件については、家庭裁判所で手続きが行われます。

さらに、日本の裁判制度では、判決に不満がある場合には、控訴・上告ということが可能ですので、高等裁判所や最高裁判所も裁判所の種類として忘れてはいけません。

このように、裁判所と一口にいっても、いろんな種類の裁判所があります。

大阪で裁判所といったときに、梅田界隈で仕事をしている弁護士が一番最初に思い浮かべるのは、西天満エリアにある大阪地方裁判所です。同じ敷地内に大阪簡易裁判所もあります。最寄り駅は京阪線の大江橋駅かなにわ橋駅になると思いますが、大阪駅や梅田駅、東梅田駅、南森町駅などからも徒歩10分~15分程度の距離です。河を渡る必要がありますが、北浜駅なども近くにあります。

しかし、大阪家庭裁判所については、違う場所にあって、谷町四丁目が最寄り駅になります。

このように地方裁判所及び簡易裁判所と家庭裁判所が離れた立地になることはめずらしいことではありません。

京都でも京都地方裁判所と京都簡易裁判所は丸太町通りの南側、柳馬場通と富小路通に挟まれたエリアにあります。

しかし、御所の南端に位置する京都地方裁判所から京都家庭裁判所まで行こうと思うと、御所にそって北に進み、御所の北東の角から、さらに北東の方向に進んで、葵橋とおって賀茂川をわたり、あと少しで下鴨神社というところまで進まなければなりません。

徒歩で行くのはちょっとしんどいなと思う距離です。

弁護士法人心は本店が名古屋であるため、名古屋で働いたこともあるのですが、名古屋の地方裁判所と家庭裁判所は、道路をはさんで向かい合わせに建物が立っていますので、京都や大阪の裁判所の立地は、かなり遠く感じます。

また、地方裁判所には支部というものがあります。大阪府内では、大阪地方裁判所の堺支部と岸和田支部が設置されています。

そのため、地方裁判所で取り扱われる事件でも、大阪府の南のエリアでは、それぞれ岸和田支部や堺支部で事件を取り扱うことになります。

さらに、簡易裁判所はより細かくいろんな場所に置かれています。大阪府内では、堺、岸和田だけでなく、池田、豊中、吹田、茨木、東大阪、枚方、富田林、羽曳野、佐野(泉佐野)に簡易裁判所が置かれています。

地方裁判所の事件になるか、簡易裁判所の事件になるかは、原則として裁判で争う金額の大小によって割り振られます。

例えば、枚方市にお住まいの方が、裁判を起こすときに、枚方簡易裁判所をイメージして、自宅の近くの裁判所で手続きが行えると思っていたところ、請求する金額を計算したら140万円を超えていたので、大阪地方裁判所の本庁がある西天満まで行かなければならなくなったというようなことが起こりえますので、裁判を考えるときには、どの種類の裁判所に裁判を起こすのかと、どの立地の裁判所に行くことになるのかをしっかり整理しておく必要があります。

 

公示送達について

裁判を起こす場合、訴状と呼ばれる書類を裁判所に提出します。

裁判所は、その訴状を訴えを起こされた人(被告といいます)に送り届けます。

この送り届けることを民事訴訟法の用語で「送達」といいます。

しかし、被告のなかには訴状の送達を受け付けない人もいます。

その場合、裁判所は訴えを起こした人(原告といいます)に被告が本当にその住所に住んでいるのかなどの調査を求めることが一般的です。

弁護士が原告の代理人についている場合には、代理人の弁護士が現地調査を行います。

通常は、調査によって被告の所在が明らかになります。

ただし、被告が本当に夜逃げしている場合など、調査を尽くしても被告の所在が明らかにならない場合もあります。

そのような場合、裁判を永遠に始められないのかというと、そういうわけではありません。

被告の所在が明らかにならない場合には、裁判所の掲示板に公示する公示送達と呼ばれる方法で訴状を被告に送達したことにすることが可能です。

そして、公示送達が行われると、裁判の期日が設けられますので、その期日に被告が出席して反論をしなければ、原告の言い分を認めた内容で判決がでてしまいます。

このように、裁判所からの呼び出しを受け取らないと、そのまま気づかないうちに裁判に負けてしまっていることがあるというのが、日本の裁判の仕組みです。

裁判所からの手紙については、決して見逃すことの無いように気を付けていただければと思います。

 

近頃の物価について

近頃、ニュースを見ていても、何かと値上げの話がつづいております。

スーパーやコンビニエンスストアなどで買い物をしていても、これまでは100円で買えていたものが、120円、130円と値を上げています。

私が普段よく通っている食堂でも、原材料高騰により値上がりがありました。

値上げに伴い、賃金が上がっていけば生活に困ることはないですが、日本全体の統計でみると、賃金の上昇よりも物価の上昇の方が速いらしく、現時点までのところ、実質賃金は減少を続けていると聴きます。

このような、物価の上昇のなかで日々の生活を送ることには、いろんな不安があるかと思います。

特に、現役で働いている世帯ではなく、年金を主な収入減としている世帯にとって、物価上昇はかなり苦しいのではないかと思います。

弁護士法人心でも障害年金の申請手続きのサポートを取り扱い分野の一つとしておりますので、年金額と物価のバランスというのは気になる問題です。

年金額の決まり方は、一般的に法律で定められた年金額(現行では78万900円)に毎年、改定率を乗じて、その年度の年金額を決める仕組みとなっています。

この改定率というのが、非常に複雑であり、基本的には、名目賃金の変動と物価の変動を考慮しながら年金額が調整される仕組みがとられています。

国民年金等の公的年金制度は、単なる銀行の定期預金や多くの民間の年金保険等に比べて、物価に応じて支給額が変動する仕組みがとられている点で、インフレに対して強みがあるといえます。

日本年金機構のホームページでも、「年金額の実質価値を維持するため、物価の変動に応じて年金額を改定することをいいます。現行の物価スライド制では、前年(1月から12月まで)の消費者物価指数の変動に応じ、翌年4月から自動的に年金額が改定されます。私的年金にはない公的年金の大きな特徴です。」と紹介されています。

ただし、年金額が物価変動に応じて調整されているといっても、例えば物価が全体で10%上昇したから、来年の年金額も10%上昇するというような単純な仕組みにはなってはいません。

日本年金機構のホームページでは、上記の説明につづいて「なお、平成17年4月から、財政均衡期間にわたり年金財政の均衡を保つことができないと見込まれる場合に、給付水準を自動的に調整する仕組みであるマクロ経済スライドが導入されました。これにより、年金額の調整を行っている期間は、年金額の伸びを物価の伸びよりも抑えることとします。」と記載されています。

このマクロ経済スライドにより、物価や賃金が急上昇した場合でも支給される年金額は「調整率」というものを掛け合わせることで、同じ勢いでは上昇しないように調整されることとなります。

これだけ聞くと、物価が上がっても同じように年金が上がっていかないのであれば、年金はあてにならないと思われる方もいるかと思います。

この点については、「将来の現役世代の負担が過重なものとならないよう、最終的な負担(保険料)の水準を定め、その中で保険料等の収入と年金給付等の支出の均衡が保たれるよう、時間をかけて緩やかに年金の給付水準を調整することになりました。」と日本年金機構のホームページでは趣旨が紹介されています。

要するに、国民年金の給付額は、世代間扶養の理念のもと、年金受給をする方自身が払ったお金だけでなく、現役世代の支払う保険料を加えて初めて賄うことができています。そのため、現役で働く労働人口に対して、リタイアして年金の受給する側に回った人口の比率が高くなった社会で、物価変動をそのまま年金支給額に反映していたのでは、現役世帯の家計がパンクする恐れがあるという判断のようです。

確かに、物価の伸びよりも賃金の伸びが大きいような景気の良い社会であれば、年金保険料が多少あげられても、現役世代から不満は上がらなさそうですが、反対に、物価の伸びより賃金伸びが少ない状態で、年金保険料まで上がってしまうと、現役世代の生活が回らなくなるのではないかという懸念は理解できます。

調整率の設定が妥当なのかどうかなど制度の是非は、政治家ではないのでわかりませんが、少なくとも国民年金には一定のインフレリスク対応ができるというメリットはありますので、結局のところ、国民年金とその他の私的な年金保険、貯金等の様々な備えをすることで生活を維持できるようリスク分散をするしかないのかなと思われます。

釣瓶

10月も半ばを迎え、だいぶ空気が秋めいてきました。

秋の夕日はつるべ(釣瓶)落としといいますが、日が沈むのも随分早くなり6時前にはすっかり暗くなるようになりました。

ところで、この「つるべ(釣瓶)落とし」という慣用表現について、そもそもこの「つるべ(釣瓶)」というのは近頃の若い方にはどこまで理解してもらえる表現なのでしょうか。

「つるべ(釣瓶)」というのは、井戸から水をくみ上げるときにつかう滑車にかけたロープの先の桶のことです。また、そういった桶やロープ滑車を含めた井戸から水をくみ上げる機構全体を「つるべ(釣瓶)」と呼ぶ言葉の用法もあるようです。

秋の夕日はつるべ落としという慣用表現は、井戸につるべ(釣瓶)がストーンと落ちていくようにすごく早く夕日が沈み、日が暮れる秋の様子の描写です。

私の育った家には釣瓶の付いた井戸はありませんでしたが、奈良県の祖父母の家には井戸がありましたので、秋の夕日はつるべ落としという表現を聴いた時に、情景をイメージをすることは容易でした。しかし、生まれも育ちも都会でずっと過ごしてきた、特に若い世代の方にはつるべ(釣瓶)のついた井戸というのは、イメージがしにくいのではないかと思います。

ちょうど、「ファミコンのソフトをフーする」、「ビデオを巻き戻す」、「レコードに針を落とす」、「レコードの針が飛ぶ」といった、昔は身の回りにあふれていた物品にまつわる表現で、いまではその物品自体が稀少になったため、イメージがわきにくくなった日本語表現の一つではないかと思います。

昔はおそらく大阪の街でも、長屋ごとに井戸が掘られて、文字通り井戸端会議がされていたのだと思いますが、今では大阪の街なかで、井戸というものを見つけるのは至難の業かと思います。

なお、弁護士法人心大阪法律事務所とは梅田の駅をはさんで反対側になりますが、梅田スカイビルの地下1階は、滝見小路という昭和レトロを売りにした飲食店街があります。その中には、釣瓶式ではないですが、手押しポンプ式の井戸の模型が再現されていた記憶です。

大阪で井戸に興味を持った方は一度訪問してみても面白いかもしれません。

井戸は、昔は生活用水の確保のために不可欠な存在でしたが、上下水道の発達した現在では、需要がほとんどなくなりました。

もっとも、地震などの大災害でライフラインが寸断された場合などには、自宅の庭で井戸水をくみ上げられる環境というのは非常に安心感があります。

災害や水道網の老朽化への備えとして、井戸の存在は見直されても良いのではないかと思います。

この点に関連して、じゃあ明日から自宅の庭に井戸を掘ろうと思って、法的にそれは許されることなのかという点が、弁護士の性として気になりました。

調べてみると、少なくとも法律レベルでは井戸掘りについて統一的なルールを設けた法律は無いようです。

ただし、むやみに地下水の採取を許すと、地盤沈下などの問題が生じるので、各自治体ごとに条例等で地下水の採取については規制を設けているようです。

大阪ではどうだろうかと思って調べてみたところ、大阪市のホームページに「大阪市では、工業用水法で定める指定地域内において、吐出口の断面積(吐出口が2つ以上あるときは、その断面積の合計)が6平方センチメートル(口径27.6ミリメートル)を超える揚水機(ポンプ)を用いて、工業の用途に使用する地下水を新たに汲み上げようとする場合は、市長の許可を受ける必要があります(吐出口の断面積が6平方センチメートル以下の場合でも、許可の対象外であることを現地にて確認させていただく場合があります)。」と記載されていました。

では、工業用水法で定める指定地域というのは大阪市のどの範囲なのだろうかと思って調べてみたのですが、具体的にどのエリアにどのような規制があるのかについてhttps://www.pref.osaka.lg.jp/kankyohozen/jiban/kiseikuiki.htmlに詳しく表がつくられていました。

基本的には、大阪市のほとんど全域に規制がかかっているようです。

大阪で井戸を掘る場合には、行政に事前にしっかり相談をして許可を受けたうえで掘る必要があるようです。

夕食と終電について

弁護士の仕事をしていると、例えば4件の文章を今日中に書きあげなければならないといった、ノルマの中で仕事をしなければならないこともあります。

時は金なりということわざもありますが、金で時間がかえるなら買いたいと思うような忙しい日も少なくありません。

特に、夕食を食べる時間もなく、終電間際で何とか書面を書きあげようと、キーボードをたたいていると、焦燥感と高揚感の混じった感覚に襲われることがあります。

いわゆる、アドレナリンがでるというやつでしょうか。

ちなみに、先日、インターネットの書き込みでみた究極の選択に、「貧乏な若者と、金持ちの老人、なれるのであればどちらになりたいか」という問いがありました。

詳細は覚えていませんが、例えば資産~億円の60歳の老人になるのと、資産0円の18歳の若者になるのと、自由に選べるならどちらいいかというようなといです。

そして、もし、若者の方を選ぶのであれば、選ばなかった方の老人の資産額が若さの値段というものなどというような話の締めくくりでした。

まあ、なるほどなと思う話で、時間というものの価値を、お金という分かりやすい尺度で実感させてくれる良い話だなと感心しました。

時間の価値を実感するという点では、非常によくできた話ですが、実際には、人間は老人になったからといって億単位の資産が自動的についてくるわけでもないですし、手持ちの貯金を全部なげだしたとしても若返ることができるわけでもありません。

将来後悔ののこらないように、一生懸命働こうと思います。

阪神タイガース優勝

先週、阪神タイガースが18年ぶりのリーグ優勝を果たしました。

阪神ファンの友人から、喜びにあふれたLINEが届くなど、当日は、なんとなく心が明るくなうような日でした。

ただし、報道などをみていると、今回は、それほど大きな騒動にはならなかったようですが、阪神優勝というと、道頓堀への飛び込みや、かに道楽の損壊、カーネルサンダースへの加害など一部ではよくないエピソードも思い起こされます。

法律面で、実際のところ犯罪になったりするのかというところが興味があったため、少し調べてみました。

なお、かに道楽やカーネルサンダースへの加害は、明らかに器物損壊であり、調べるまでもなく刑法に抵触します。

では、道頓堀への飛び込みは、何に抵触するのかと思って調べてみると、特にこれといって、河川への飛び込み行為を禁止する法律はないようです。

ただし、映像をみていると、今回は戎橋のうえにずらっと警察官の方々がならんで飛び込みをさせない構えでガードしていたようですが、例えば、こういった警察官の制止を振り切って、無理に飛び込もうとすると公務執行妨害罪などに当たる可能性があるので注意が必要です。

また、数年前に道頓堀にダイブした方が観光船と衝突する事故を起こしたことがありましたが、そういったことがあれば、業務妨害、過失傷害や器物損害等の刑事罰の対象ともなりますし、民事上の賠償請求の対象ともなります。

 

成人と子供について

成人年齢が18歳に引き下げられたことは、非常に大きな話題になった法律上の変化です。

ただし、以前のブログでも言及したところですが、法律の適用がすべて18歳で区切られるというわけではありません。

飲酒などについては引き続き20歳まで禁止されます。

また、成人年齢の問題を話し出すと、どうしても成人と未成年という二分論の境界線が何処にあるかという発想になりますが、実際の法律では、年齢に合わせてもっと細かな区分がされていることがあります。

例えば、少年法では、20歳未満(19歳以下)が少年とされています。ただし、死刑の適用については、罪を犯したときに18歳未満(17歳以下)であったかどうかで、死刑が適用される場合でも無期懲役になるか、そのまま死刑判決がされるかが変わる仕組みになっています。

また、14歳未満か否かで、少年審判に付される要件が変わる仕組みになっています。

そして、刑法でも責任年齢として14歳未満の行為は罰しないとされています。

このように、法律の世界では、単純に成人と子供とを二分するのではなく、より細かく、年齢による発達の段階で徐々に責任の程度や処罰の程度が重くなっていく仕組みがとられています。

人間というのは、徐々に成長していき大人になるものですから、このような段階的な法の規律ということが必要になってきます。

弁護士と物理学について

弁護士というのは、基本的に大学の法学部を卒業して、司法試験に合格して、弁護士になる人が多いです。

新司法試験制度移行は、法科大学院で法学を学んでから、司法試験に合格というルートが一般的です。

いずれにしても、弁護士の多くは文系畑の出身であり、個々人の差があるにせよ、物理や数学などの理系科目は、理系学部で大学を卒業した方に比べると苦手なことが多いです。

しかし、実際に、弁護士の仕事を始めてみると、実務の世界というのは、文系理系というような二元論では片づけられない問題にあふれています。

特に、交通事故などで過失割合が問題になる場合には、例えば、ブレーキ痕から衝突の態様をあきらかにしようと、摩擦係数やらなんやらといった複雑な計算が必要になります。

あるいは、車の凹みぐあいなどから、衝突の速度を計算したりと、物理の話がたくさんでてきます。

最終的には、こういった複雑な計算は専門の鑑定会社にお願いして鑑定してもらうのですが、弁護士が訴訟の方針をきめるためにも、弁護士自身がある程度、自動車の物理工学について知っていることは重要です。

なお、そういった際に、私は立花書房から出版されている『交通資料集』という書籍をよく参照しています。

その他にも、自動車工学に関する書籍は数多く出版されており、すべて大切な資料なのですが、この『交通資料集』は、時速別停車距離の表など、必要な結論部分がコンパクトな書籍のなかにまとまっていて、非常に使い勝手が良いです。

 

七夕の昔話が大人になってみると怖い話に思えることについて

7月というと七夕があります。

このまえ、近所のお寺の前を通ると、竹にたくさんの短冊をつるしていて、季節を感じました。

小学校のころから、短冊に抱負や願いをかいたりして、七夕というと楽しいいイベントであった記憶です。

また、七夕の昔話も、天の川をわたって織姫と彦星が逢うことのできる日ということで、どちらかというと男女の愛情にかかわるロマンチックな話として、子供の頃は、なんだか綺麗ないい話としか感じていませんでした。

しかし、七夕の昔話は、より詳しく思い出すと、もともと機織りの織姫と牛飼いの彦星が恋仲に落ちて、仲睦まじく過ごすばかりで真面目に働かなくなったため、天の神が二人を天の川によって引き離し、真面目に働いていれば年に1回だけ逢うことを許すことにしたという話です。

弁護士という仕事柄、どうしても「働く」という言葉をきくと、労働基準法などの労働法規を連想してしまいますが、大人になって七夕の昔話を考えてみると、両性の合意により結びついた婚姻関係にある二人を、無理やり引き離して隔離し、1年間の労働を強制し、ただ1年に一度だけ逢うことが許されるという話なわけですから、ロマンチックどころか凄まじいブラックな労働環境と人権侵害の話です。

苛酷な労働環境、機織りというキーワードを合わせると、「女工哀史」や「あゝ野麦峠」、「糸をひくのも国のため」といった話がおのずと想起されますが、歴史をふりかえれば、織姫の神話のように、家族と引き離されて労働を強いられたエピソードはたくさんあるのでしょう。

近年では、働き方改革などで残業時間の規制など、労働時間を制限する方向性が顕著ですが、考えてみると、様々な労働法規による保護と規制も、長い問題解決の歴史の中で形成されてきた、貴重な遺産なのだなと感慨深く感じます。

もう6月

弁護士の仕事をしていると、日々、忙しく怒涛のように時間が過ぎていきます。

つい1~2週間前に5月のブログを書いたような気がしていたのに、もう1か月が経過していたりします。

有名な物理学者のアインシュタインは、相対性理論を説明するのに、Put your hand on a hot stove for a minute, and it seems like an hour.Sit with a pretty girl for an hour, and it seems like a minute.(熱いストーブのうえに手をおいてたら1分も1時間に感じるだろうし、美女の横に座れば1時間も1分に感じられる)という表現を使ったそうです。

体感時間というものが、物理学の高度な理論とどのように関連するのかは、門外漢である私にはわかりませんが、確かに、経験上、時間の流れというのは、主観の在り方によって随分と影響を受けることはよく理解できます。

仕事をしていて、時の流れを速く感じるというのは、それだけ仕事が充実しているからなのかもしれません。

それにしても、主観と客観のずれというのは、人間の避けがたい性質の一つのようです。

弁護士の仕事をしていると、過去に起きた出来事について正確に聴き取って文章にまとめたり、証拠を集めたりすることが必要です。

交通事故の尋問などのときには、その日にあった出来事を事細かく、位置関係や移動距離、移動時間など特定して陳述書を作成したりします。あるいは、破産管財人に破産者の借金をした経緯を説明するときには、依頼者の方のこれまでの生活状況を時系列で細かく説明したりもします。

弁護士は、依頼者の代理人ですので、依頼者の言葉を代弁する形で陳述書を作成します。

ただし、依頼者から過去の事実関係についてお話をお伺いするときに、常に聴き取ったお話の内容が、その他の客観的な証拠と整合するかを気にして確認するよう努めています。

このようにいうと、お客様である依頼者の言葉を疑ったり信用していないように思われてしまうかもしれませんが、決してそういうわけではありません。依頼者の方が嘘をついていると思うから、証拠の裏付けを求めるというわけではありません。

むしろ、上での述べたように、人間の主観的な認識と客観的な状況というものが、非常に齟齬をきたしやすいものであると思うために、お客様の主観的な記憶と、その他の客観的な証拠の照合作業を欠かさないようにしようと思うわけです。

例えば、交通事故で相手の車との距離について、だいたい10mぐらい離れていたという記憶でお客様が話をされているときでも、実際に、現地にいって一緒に距離を計測したりすると、実際には5m程度の距離しか離れていなかったということもあります。そして、裁判を進めるうえで車間距離が5mであった方が、依頼者にとって有利ということもありえます。

このような場合、依頼者からきいた10mぐらいだったという言葉をそのまま陳述書に書き写すのではなく、客観的な証拠との整合性を検討したうえで、5m程度であった可能性について言及したほうが、依頼者の方の利益にかないます。

もしかすると、弁護士と話をしていると、「私の話をした内容をいちいち他の証拠で確認している。私のことを信用していないのではないか。私が嘘をついていると疑っているのではないか。」と心地悪く思われる方もいるかもしれません。

ただ、基本的に弁護士が細かく証拠との整合性を検討しようとするのは、依頼者の話をする内容が嘘じゃないかと疑っているからではなく、人間が一般的に起こしがちである主観と客観とのズレが起きていないかをチェックして、少しでも依頼者の有利な方向に事件を進められないかと考えてのことですので、どうか寛容なお気持ちで、弁護士の不躾な質問や証拠の確認を受け入れていただければ幸いです。