新型コロナのワクチン接種

緊急事態宣言も先月末で解除となり、新型コロナの流行も、ひとまず今のところは落ち着きをみせていますが、

6波のリスクもとりざたされております。

弁護士の仕事は、不特定多数のお客様と日々接する仕事ですので、副反応の話などをきくと、若干の恐怖心はあるものの、

やはりワクチンは必要かと思い、ワクチン接種に行ってまいりました。

2回に分けての接種となるので、なかなか、スケジュールの調整がむつかしくありましたが、

先日、ようやく2度目の接種を終えました。

副反応については、やはり、厚生労働省のホームページに紹介されているような副反応はやはり出るのだなという印象で、注射を打ってから半日ぐらいは、特にこれといった副反応はなかったのですが、ちょうど12時間経ったあたりから、寒気がしはじめて、体温計ではかってみると38度台後半から39度台前半を行ったり来たりする状況となりました。

想定の範囲内ではあるものの、2度目の接種後は発熱で、1日自宅で寝て過ごすこととなりました。

熱の高さだけをみると、びっくりするような高い熱だったのですが、本当に風邪を引いて38度台の熱が出たときに比べると、そこまでしんどい感じではなく、ただ体温が高く体の節々が痛いという状態が24時間ほどつづき、そのあとは、嘘のように軽快しました。

令和3年司法試験の結果

大学受験は、多くが毎年1月~3月の間に実施されて結果が発表されます。

その季節をふまえて、電子メールがなかった時代に、合格通知を電報でおくるときは「桜咲く」と送ったとききます。

送信できる文字数に限りがあるからこそうまれた、なんとも、典雅な隠語です。

司法試験はこれとは季節がことなり、毎年5月頃に試験が行われ、9月に合否の発表がなされます。

今年も約1400人が合格したようです。

 

白黒のテレビを見て思い出したこと

新型コロナウィルスの流行以来、休日は家でテレビでも見て過ごそうかということが増えました。

ここ何週間かは、テレビでオリンピックの放映がありましたので、見飽きるということがありませんでした。

最近の、テレビの映像は、驚くほど進歩していて、360度カメラやドローンなどをつかって、選手の息遣いや、現場の臨場感を伝えてくれます。

翻って考えてみると、昭和の東京オリンピックの頃には、まだ、普通の家では白黒テレビが一般的だったと聴きますので、隔世の感があります。

テレビを見ていると、オリンピックの記録映像などで、ときどき、白黒の記録映像が流れていることがありますが、私が、子どものときには、すでにどこの家庭でもカラーテレビがありましたので、白黒のテレビというのは、むしろ新鮮に感じられます。

ところで、弁護士として仕事をしていると、ある事実や証拠から、どうやってその他の事実を立証するかという難問に直面することがよくあります。

「Aという証拠があるから、Bという事実があったはずだ。」、あるいは、「Aという事実からは、Bという事実があったと考えるのが自然である。」という、推論の過程を裁判でも良く使います。

テレビで流れる白黒の映像を見ていて、こういった「ある事実や証拠から、他の事実を推測することの難しさ」に、私が人生で初めて気が付いたときのことを、ふと思い出しました。

私が、3歳か4歳の頃だったと思いますが、生まれてからずっとカラーテレビしか見たことのなかった自分が、偶然、白黒の旧い映像がテレビで放送されているのを見ました。

幼い自分には、いつもは色のついているテレビが急に白黒になったのが不思議で、これはなぜなのか、父親に尋ねると、父親かはら「これは、昔に撮影されたテレビだから白黒なのだ。」と答えが返ってきました。

その答えをきいて、私は驚いたのですが、そのとき、私が思っていたのが、自分が生まれる前の昔の世界には、そもそも「色」というものが存在していなかったのかということでした。そして、だとしたら、いったいいつからこの世界には「色」が与えられたのかということを疑問に思っていました。

大人になった今の自分からみれば、なんともおとぎ話のような誤解なのですが、子どもの頃の自分の頭の中にあった推論の過程をきちんと言葉にして整理すると以下のようになるはずです。

「テレビに映る映像は、実際に自分が目で見ている世界と同じような風景である。そして、大人は、みんなテレビのニュースで流れる映像をみて、あんなことがあったこんなことがあったと話をしている。だとしたら、テレビの映像は、実際に目で見ることのできる世界を正確に記録しているのだろう。そして、昔のテレビに映されている映像が、白黒の映像なのだったら、この映像が映された当時の世界は、実際に白黒だったのだろう。」

これはこれで、一つの推論の過程としては、理屈にはかなっているように思います。

もちろん、昭和の東京オリンピックが開催される遥か昔から、世界には「色」が存在していたはずであり、子どもの頃の私の理解は、明らかに誤解なのですが、この推論にきちんとした反証をしようと思うと、それなりに、いろいろ考えなければなりません。

例えば、技術的な観点からは、テレビを撮影する際の録画器材の発展の歴史について説明し、色付きの映像を撮影できるカメラと、白黒映像しか撮影できないカメラの二種類があるという事実を挙げる必要があります。

あるいは、テレビが発明される前の時代の文献にも、「色」に関する言葉は存在していて、人々が「色」を認識していたと考えられるというような、反論も可能かもしれません。

もっと原理的な説明をしようと思えば、人間が色を認識するのに必要な、光の波長や眼球と脳の構造などについて説明し、それらが、昔から変わっていないということを説明するのも、有効かもしれません。

いずれにしても、このように、同じ事実や証拠を目の前にしても、前提や背景にある知識がことなっていれば、推論の向かう方向が180度異なってしまうことは、しばしば起こる現象です。

特に、裁判などの専門性が求められる世界では、こういうことが良く起こります。

例えば、法律や裁判例の動向について詳しくない方からすると、一見すると「自分にとって有利だ」と思える証拠が、

実際には、裁判例の動向や裁判官の経験則を踏まえると、むしろ、不利な証拠として評価されてしまうということもあります。

東京オリンピックをみていて、自分も、証拠や事実の評価を見誤らないように、新しい裁判例の勉強など、疎かにしてはいけないなと、気持ちを引き締め治すきっかけになりました。

 

現代法と分国法

民法改正への対応はここ数年、弁護士の業界で非常に大きなテーマとなっており、私も含めて、多くの弁護士が、関連する書籍を読んだり、研修に参加するなどして、新たな民法と旧民法の変更点について学んでいます。

このような、近代日本民法は、明治時代にボアソナードを代表とする欧米の法学者を招いて、欧米の法体系を日本的にアレンジして輸入したものです。ボアソナードがフランス人であったことからもわかるように、日本民法は、フランス民法の強い影響を受けて成立したといえます。

フランス民法はローマ法の影響を受けていますので、あえて法律の歴史を親子関係のように喩えて考えていくと、今の日本民法の遠いご先祖を辿っていくと、古代ローマの民法に至ることになります。

他方で、日本史の授業で学んだように、奈良時代の律令や御成敗式目など江戸時代以前の日本にも、さまざまな法律がありました。

先日、近代的な法体系が西欧から輸入される前の日本では、どのような法律がつかわれていたのだろうと、ふと興味がわいてきて、歴史学者の清水克行という先生の「戦国大名と分国法(岩波新書)」という本を買って読んでみました。

この本で紹介されている分国法の内容を見てみると、やはり、「現代とは、ずいぶん違う社会のルールがあったのだな。」と強く感じます。

例えば、結城家の分国法について紹介されている一節に、田畑などの土地の境界争いについて、争われている土地があった場合には争っている当事者に半分ずつ土地を折半するか、それが駄目なら結城家がその土地を没収するというような法律があったと紹介されています。

これなどは、現代の境界確定訴訟などと比べると、非常に粗雑に思えるルールです。この本のなかでは、当時どうしてこういうルールが採用されたのかという、時代背景や当時の人の法意識について言及がされていて、興味深いです。

また、本の中の一節で紹介されていた中世の法格言の一つとして「獄前の死人、訴えなくんば検断なし」というものがありましたが、これは、警察の目の前に死体があっても、被害を訴える人がいなければ警察は捜査をしませんよといっているものです。刑事ドラマなどでもよくあるように、現代社会では、身元の分からない死体があれば、警察が検死や司法解剖をして、事件性の有無を調査していきます。

したがって、中世のこのような法格言は、現代の感覚とは、かなり異なったものです。

ただし、現代の刑法にも「親告罪」といって、被害者から告訴がなければ刑事裁判にはかけられないという犯罪の類型もありますので、人の死の持つ重みが時代によって違っただけで、法律の仕組みとしては、案外似ているところがあるのかもしれません。。

この筆者の本は、他にも何冊か読んだことがあるのですが、現代人には理解し難く感じる過去の歴史に関する話を、ユーモアのある文章で、現代の身近な例などと関連付けながら分かりやすく説明していて、非常に読みやすく面白い本です。皆様も、もし法律や歴史に興味があれば、書店で手に取ってみてください。

 

 

 

電動キックボードについて

キックボードというと、スケートボードの前方にハンドルがついた乗り物で、子供たちが片足で地面をけって推進力をだしながら滑って遊んでいるのをよく見かけます。

ところが、最近、街中で電動のキックボードというものをよく見かけるようになりました。

昔ながらのキックボードのように、片足で地面をける必要はなく、両足をのせて、セグウェイのように自動で進んでいきます。

しかも、自転車ほどではないにせよ、スピードも結構でるようです。

しかし、便利そうだなと思う反面、これで事故は起きないかなと、物事の悪い方、悲観的な方ばかり考えてしまうのが、弁護士という仕事の性です。

実際に、インターネットで「電動キックボード 事故」等のキーワードで調べてみると、残念ながら事故も起きているようです。

また、調べていて気付かされたのは、電動キックボードは、道路交通法上は電動機付自転車に該当し、無免許で運転すると処罰される可能性があるということです。

いわれてみれば、確かに電動のモーターによって車輪が自転する二輪車なので、原動機付自転車に違いはないのですが、見た目のイメージでどうしても、子供がおもちゃとして遊んでいるキックボードのイメージが強かったために、盲点を突かれたような思いでした。

何事も、見た目の印象で先入観を持って判断するのは危険です。

私個人は、電動キックボードに乗ったことも購入したこともないのですが、おそらくは、購入する際にお店で、免許の確認や使用方法についてキチンと案内はされるのでしょう。

ただ、友人宅に遊びに行って電動キックボードがあったので、貸してもらったというような場合、自覚のないうちに無免許運転の交通事故を起こしてしまう恐れもありますので、気を付けなければならないなと思いました。

親族の呼称について

弁護士として相続などの事件に携わっていると、たくさんの親族関係を家系図を書きながら整理しなければならないことが、よくあります。

手控え程度の非公式のメモであれば「~さんの、おばさんが、~さん。」「~の不動産は、~さんの、ひいおじいちゃんの名義」等のメモで十分なのですが、これをお客様や相手方、裁判所に見せる公式の文書に書き直そうとすると、口語体の親族呼称を、きちんとした漢字表記の文語的な呼称に修正しないといけません。

たとえば、「ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん」は、「曾祖父、曾祖母」などとしますし、「一番上のお兄ちゃん」なども「長兄」などと書き換えたりします。

たしかに、裁判所に提出する文章に「一番上のお兄ちゃんは・・・」と書いてあると、意味は問題なく通じるのですが、なんとなく締まらない印象になってしまいます。

ただ、このように単に口語を文語に言い換えるだけなら、まだ簡単なのですが、日本語の親族呼称には、一言で「おとうさん」「おじさん」などといっていても、漢字に直す場合には、親族関係に従って区別が生じる場合があります。

たとえば、「おとうさん、おかあさん」といっても、血のつながりのある父母であれば「実父、実母」、配偶者の父母であれば「義父、義母」等の書き分けがありますし、配偶者の父母については「岳父、丈母」など古風な表現も存在します。

また、とりわけ紛らわしいのが「おじさん、おばさん」の関係で、自分の父または母よりも年上の場合(父または母の兄姉)には「伯父、伯母」、年下の場合(父または母の弟妹)の場合には「叔父、叔母」を使うという区別があります。

なお、「昭和20年生まれのおとうさんの妹さん(昭和24年生まれ)の夫(昭和14年生まれ)」という場合には、日常会話では「おじさん」と呼べばよいのですが、漢字に直す場合には「伯」か「叔」か悩ましく思います。

調べてみると、この場合には、あくまでも父親の兄弟姉妹関係の上下を基準に、妹の夫は、たとえ父親より実際の年齢が高くても「叔父」を使うそうです。

このような、表記のルールはすごく難解だと感じるのですが、日本の親族呼称の漢字表記は、これでもまだ単純なようで、漢字の源流である中国ではさらに細かな区別があるようです。

たとえば、父親のお兄さんは「伯伯」で、弟は「叔叔」です。

このあたりは、日本の漢字表記と同じ区別なのですが、母親の兄弟については「舅舅」という新たな言葉がでてきます。

また、父方のおばさんは「姑姑」、母方のおばさんは「姨妈」と、ここでも父方か母方かで呼び方が異なるそうです。

しかも、父親の兄弟姉妹の配偶者の呼称についても、それぞれ区別があり、

父親の兄(伯伯)の配偶者であれば「大妈」、

父親の弟(叔叔)の配偶者であれば「婶母」、

母親の兄弟(舅舅)の配偶者であれば「舅母」、というように区別するそうです。

日本であれば、口語で話すときは「おじさん」「おばさん」の二つだけで済みますが、

上記の親族呼称について中国語では、単なる漢字表記だけでなく、それぞれの親族呼称の発音・音声も異なるようなので、日常会話レベルの口語でも、これらの区別が存在していることになります。

中国の人は、本当にこれだけの細かな呼称を、混乱せずに使いこなせているのか、今度機会があれば、中国の人に聞いてみたいように思いますが、この複雑な親族表記のルールを見ていると、「伯」と「叔」の使い分けが面倒だなどと泣き言は言っていられないなという気持ちになります。

時代の変化を感じること

弁護士の仕事をしていると、家事事件や破産事件などの関係で、個人の財産状況を把握しなければならないことがよくあります。

そのような、財産状況を把握しようとしたときに思うことが、昔に比べると確認しにくい財産が増えたのではないかなということです。

私の子供の頃を思い出すと、両親の金融資産といえば、財布に入った現金と銀行預金ぐらいのものでした。

当時も、証券会社とやり取りをして株などを持っている人はいたのだと思いますが、インターネットも普及する前の時代でしたので、

個人が気楽に証券会社で口座を開いて株の売買の指図をしたり、デイトレーダーになったりというようなことは難しい時代でした。

しかし、今では、インターネットの普及で、年齢の若い方でも、普通に、株やFX、仮想通過などの口座を開設して取引をしていたりします。

インターネット証券で株などの取り引きの仕組みを理解しないと、そもそも、どうやってオンライン証券上の財産額を把握するか困ってしまいます。

また、交通系のICカードや電子決済の普及で、現金や預金以外の形で、お金を保持することも容易にできるようになりました。

交通系のICカードが普及し始めたころは、駅で切符を買ったり、駅員に切符を見せたりせずに済むようになって、未来の世界にきたような気分になりましたが、今では、当たり前のように交通系ICカードを使って電車に乗ったりコンビニで買い物したりしています。

交通系ICカードだけでも、携帯電話のなかにも、電子決済のアプリが入っていて、そのアプリを利用して電子マネーで決済をしたり、キャリア決済で電話代と一緒に、その他の支払をしていたりもします。

昔は、商品券といえば、デパートの商品券か、ビール券、図書券などが一般的で、実店舗にいって商品と交換していましたが、いまでは、インターネット上のサービスを利用するためのギフト券が普及していて、しかも、そのギフト券も、実際に「物」としてのギフト券に一度も触れることなく、例えば、携帯電話の電子決済で、インターネット上でギフト券を購入して、電子メールで友人にギフト券を贈ったりということが可能になっています。

時代の変化は、小さな変化の積み重ねなので、その変化の中に身を置いていると、新しい技術も当たり前のように受け止めてしまいますが、自分の子供の頃を思い出すと、江戸から明治への文明開化以上の、大きな変化なのではないかと感じます。

特に、自分自身がまだ利用していない、新たなサービスに出会うと、財産状況の把握に難儀しますので、努めて新しい財産に関するサービスについては、時代の流れに取り残されないように、自分自身も体験するようにしていきたいと思います。

 

 

 

Googlemapの便利さと面白さについて

弁護士の仕事をしていると、遠隔地の道路状況や不動産を実際に見てみたいと思うことが多々あります。

例えば、交通事故の事案などですと、事故の現場の道路状況などを見たいと思います。

また、不動産が関係するような案件では、その物件がどんな不動産なのかを見てみたいと思います。

刑事事件などでも、事件の現場が例えば最寄り駅や繁華街からどのくらい離れた場所なのか、近隣に人通りがどのくらいあるのかなど、事件に関係する場所の地理感覚を持ちたいと思います。

そういう時は、実際に現地に足を運ぶのが最善です。

ただし、その場所が遠隔地であった場合には、実際に現地に行くことは容易ではありません。

そういうとき、Googlemapは非常に助けになってくれます。

おそらく、弁護士になる前と後で、Googlemapを開く回数や時間は、何十倍にもなったように思います。

また、Googlemapでは移動経路を検索することもできますので、交通費の計算などにも活用できます。

地図で位置関係を把握し、衛星写真で実際の周辺環境を鳥瞰し、不動産の外観等が気になるときには3Dモードに切り替えれば真上からだけでなく斜めからの鳥瞰図もある程度みることができます。

そして、ストリートビューに切り替えて、まるで現地を歩いているかのように周辺環境を見ることもできます。

弁護士の立場からすると「よくこんな痒いところに手が届くような、すごいサービスが無料で提供されているな。」と、ありがたくも思い、また感心もします。

このように、さんざんGooglemapのお世話になってきた私ですが、先日、初めて気づいた機能があります。

Googlemapを利用しているとき、より広範囲の地図を表示したいときには、画面右下の「-」ボタンを押してどんどん表示範囲を拡大することができるのですが、勢いよく連打していると、画面表示が地球の枠を飛び越えて、宇宙から地球をみている光景が表示されます。

しかも、衛星写真モードでみると、かなり綺麗な地球の写真が表示されます。

宇宙には地球以外の星も描かれていて、角度を切り替えるとアングルによっては太陽まで映ります。

そして、太陽と反対側の地球はちゃんと陰影をつけて表示されます。

しかも、その陰影の中が単に真っ暗になるのではなく、アメリカや日本のように、夜でも電気を大量消費をしている国は、街の電気で明るく表示されています。

衛生写真をベースに利用しているからできることなのか、仕組みはよくわかりませんが、「なんと芸の細かいことだ。」と驚かされました。

まるで宇宙飛行士になって、宇宙から地球を眺めている気分を味わえて、なかなか面白いです。

地図を見たいと思ってGooglemapを開く人にとって、このような宇宙から地球を眺める映像は、本来不要なものであると思われます。

道に迷って地図を求める人に、「地球儀」や「世界地図」を差し出すというのは、極めて古典的なボケです。

だからこそ、こういう実用的な利用目的との関係で本質的でない不必要な部分にまで、手を抜かずに丁寧な機能を付けているところにGoogleの凄みを感じ、まったく脱帽する思いを抱きます。

過料?

新型コロナウィルスの蔓延防止のため、昨今、特措法の改正がニュースなどで取り沙汰されています。

入院指示に従わない個人等に対して、「過料」という形で制裁を加える形になる見込みだと聴きます。

言うこときいたら補助金・給付金というアメを与え、言うことを聞かなければ過料によるムチを与えるという、

アメとムチによる統制は、非常に古典的で伝統的な統制方法であるといえます。

感染予防も個人の自由も、ともに重要な価値ですから、改正には賛否両論が出てきて当然なのだと思います。

このブログでは、今回の改正の是非を論じることはいたしません。

ただ、賛成するにしても反対にするにしても、そもそもその対象がなんであるかを知っていなければなりません。

この「過料」というのは、そもそも何なのでしょうか?「罰金」とは何が違うのでしょうか?あるいは、「過料」をかされたひとは、犯罪者となるのでしょうか?

こういった、「過料」に関する基本的な話をご紹介したいと思います。

「過料」という言葉を、辞典などで調べてみると、いろんな説明が書いてありますが、大きなポイントとして挙げられるのが、「刑罰ではない。」という点です。

よく似た制度として、「罰金」というものがあり、これは「刑罰」の一種だと紹介されています。

両方とも、ルールに違反した人に対して、制裁としてお金を払いなさいという制度である点では同じです。

この「刑罰」にあたるのかどうか?という区別は、法律になじみのない方には、あまりピンとこないのではないかと思います。

まず、これを理解する前提として、法律には、いろんなジャンル分けがあるのだということを知っておく必要があります。

ちょうど、TSUTAYAにいけば、洋画コーナーと、邦画コーナーと、韓流コーナーが分けられているように、法律にも、グループがあるのです。

そして、代表的なグループ分けが、民事法(民法や会社法など)・刑事法(刑法など)・公法(憲法や各種の行政法規)という三種類の分類です。

例えば、「交通事故で人をケガさせたら賠償金を払わないといけませんよ。」というルールは、一般の民間人同士のお金のやり取りに関わる話であり、民法にその根拠があります。つまり、民事法の領域だということになります。

これに対して、「交通事故で人を死なせたり、怪我をさせた人は罰せられる。」」というのは、刑法の過失運転致死傷罪などに関わる話であり、刑事法の話になります。そもそも、「刑法とは何か?」という議論自体が、法学部の授業で大きなテーマになるぐらい難しい問題なので、ここで、あまり詳細に論じることはできませんが、法律の専門家の方以外に、なんとなくイメージをつかんでもらうという意味では、「刑事法というのは、悪いことして誰かに実際に迷惑をかけた時に、どのよう処罰されるのか」に関する話なのだというぐらいに、理解していただくのがいいのではないかと思います。

このように、刑事罰の対象となるルール違反は、人の命や健康、財産などを危険にさらす行為が中心です。

これに対して、ルールを破っても、誰かがすごく危険な思いをするわけではないけど、でも社会のみんなが守った方が良いルールというのもあります。

例えば、引越ししたら住民票はちゃんと新しい住所で届け出てくださいねというようなルールがそれにあたります。

別に、住民票の届出を怠っていたからといって、誰かの命が危険にさらされるわけではありませんが、みんなで住民票を届出することで、

住民サービスが円滑に行われ、社会全体の利益となります。

住民票については、住民基本台帳法に届出義務が定められており、こういったものが公法上のルールの一つです。

そして、「罰金」と「過料」の区別について話を戻しますと、「罰金」というのは、刑事法の領域でルール違反をした場合の制裁です。他方で、「過料」というのは、公法や民事法の領域で、ルール違反があった場合の制裁であるという点で、両者の区別がなされます。

例えば、住民票の届出についても、これを怠っていた場合、「過料」の制裁がなされる可能性があります。

今回の新型コロナウィルスに関する法改正でも、あくまでも、感染予防という社会の秩序を維持するという目的のために加えらえる制裁なので「過料」が適切だという判断があったのだと思われます。

なお、一般的に「犯罪者」という言葉は、刑法等の刑事法に違反したものを指すことが多いので、公法上のルールに違反して「過料」の制裁をうけただけで、犯罪者と言われることはないと考えられます。また、いわゆる「前科」というものも、刑事法の領域の話しですので、例えば特措法に違反して過料の制裁をうけたからといって、前科がつくわけではないといえます。

この点で、民事法・刑事法・公法というグループ分けを理解したうえで、「過料」の制裁が持つインパクトを理解することが重要です。

ちなみに、罰則を設ける必要性との関係で、入院先からの脱走事例などがニュースで紹介されていたのを見かけました。

この点については、もちろん「過料」という形の抑止力も理解できるのですが、「そもそも「過料」で済むのか?」という問題も注意が必要です。

例えば、自分自身が明らかに新型コロナウィルスに感染していることがわかっていて、あえて、第三者に濃厚に接触して、その人を新型コロナウィルスに感染させたとすると、公法上のルール違反の次元ではなく、傷害罪として刑事罰が科される可能性があります。

この場合には、前科も残ってしまうことになります。

 

 

 

 

テレビ電話の活用について

新型コロナウィルスの蔓延以来、人と人との直接の接触を減らそうという機運が高まっています。

もっとも、弁護士の場合、債務整理などの分野では直接面談義務という話があり、

原則として、人と人とが直接対面であって相談に乗ることが求められています。

お医者さんの世界では、医師法20条の解釈を巡って、オンライン上での診療をどこまで許容するのかについて、活発に議論や提言がなされ、

メディアなどでも、そういった議論が取り上げられるのを目にするのですが、

あまり、弁護士の直接面談義務に関しては、そういった議論がテレビなどで取り上げられているのを目にした記憶がないです。

私、個人としては、債務整理を必要とする方は、自分自身の財産や収支、時には借入れの状況も把握できていないことが多々ありますので、

顔を合わせて相談に乗ることもせずに、破産だ再生だという方針を決めるのは避けたほうが安全だという感覚を持っていますが、

新型コロナウィルスの蔓延というような特殊な状況下で、原則をどこまで維持するべきなのかなど、悩ましく思うところでもあります。

受任の際の直接面談とは、少し別の話になりますが、コロナの蔓延以来、裁判所などではテレビ電話を利用したweb会議の活用が広く進んでいるように思います。

直接面談の趣旨が没却されないように、工夫を凝らしながら、テレビ電話等を利用して感染リスクを最低限にして、相談ができるようになると、

もう少し安心して働けるなという感想を持ちます。

 

今年1年を振り返ると、常にコロナの影響がありました

今年もいよいよ仕事納めです。

今年1年を振り返ると、何事においても、常に新型コロナの影響を受けた1年でした。

新型コロナが拡大する前は、お客様と応対する際には、マスクを着けたままというのは、むしろ失礼だというのが、

接客の常識だった気がします。

ところが、今では、コンビニでも、どんな店でも、店員は常にマスク着用で、透明のアクリル板やビニールごしに応対するのが当たり前になりました。

私自身も、コンビニで買い物しようと思って入ったときに、店員がマスクをしていなかったり、マスクを顎の方にずらして働いているのを見ると、

そのコンビニでは買い物せずに、別の店にいったりするようになりました。

弁護士事務所での相談でも、以前は、マスクなどつけずに相談に乗らせていただいていましたが、

いまでは、弁護士も相談者もマスク着用は必須ですし、相談室のような狭い部屋もできるだけ避けて、窓を開けて換気できる部屋で、相談をするように変わりました。

また、直接面談義務がある業務分野以外では、基本的に電話相談など、リモートの相談で完結するように工夫することも増えました。

緊急事態宣言の際には、裁判の進行が大きく中断しましたが、その後も、電話会議やWEB会議での期日が一気に広まったように思います。

私生活でも、12月は例年であれば、忘年会を口実に、気の合う仲間と集まって飲食をする季節ではありましたが、

今年は、ZOOM越しの集まりで済ませるようになりました。

普段の食事も、外食を避けて、自炊中心になりましたので、この点では、新型コロナの流行は、家計や健康に良い影響を与えたかもしれません。

ちょうど1年前の今頃を思い出すと、たった1年で仕事のやり方も、社会の雰囲気も、こんなにも変わるものかと驚かされるものがあります。

せめて来年の後ろ半分は、自粛不要の生活を送りたいものです。

「は」と「が」の使い分けについて

弁護士として仕事をしていると,日本語の細かな使い方についても気を使わなければなりません。

助詞の使い方ひとつで文章のニュアンスが変わることもあります。

先日,書面の推敲をしながら,ふと気になったことですが,

「AはBした。」という文章と「AがBした。」という文章は,どちらもよく似た意味の文章だけれども,ニュアンスに違いがあります。

しかし,どこがどう違うのか,うまくその感覚を言語化できずに,もどかしく思い,日本語文法の書籍等で調べてみました。

調べてみたところ,そもそも「~が」というときの「が」は格助詞と呼ばれ,文章のなかでその言葉が主語であることと示す働きがあるのに対して,

「~は」というときの「は」は格助詞ではなく副助詞(提題の副助詞)として分類され,話の主題や話題がなんであるかを示す働きがあるとのことでした。

どちらの文章でもAが主語になっているので,「は」も「が」も主語を表す助詞なのかと思っていたのですが,私の認識に誤りがあったようです。

確かにいわれてみれば,「次回期日は,追って指定します。」というときの「は」は,あくまで話題であり,主語ではありません。「次回期日が,追って指定します。」といわれたら,奇妙な日本語になります。

その他にも,「は」と「が」の使い分けについては,いろいろと興味深い説明がありました。

例えば,「が」は話者又は聞き手にとって新たな情報,「は」は既知の情報について語る時に使うというような使い分けや,複数の物事を列挙して話すときに「は」は対比を表すのにたいして,「が」は排他的関係を表すなどです。

例えば,「明日が書類提出の締め切り日です。」といわれたときと,「明日は書類提出の締め切り日です。」といわれたときでは,前者は,書類締め切りの日について知らない(あるいは忘れていそうな)人に対して語っている印象になるのに対して,後者は,共通認識となっている締め切り日について再確認しているような印象になります。

また,例えば「あの人の容姿が良い。」といわれるのと,「あの人の容姿は良い。」というのでも,ニュアンスが異なります。

前者は,「あの人」という人物の属性のなかの「容姿」という限定された排他的一部分について,「良い」と語っている形になるので,「容姿」以外の属性については肯定的なニュアンスも否定的なニュアンスもとくになく,「容姿」に関する純粋な誉め言葉としてみることができます。

他方で,後者の場合には「容姿はよいけれど・・・」というように,「容姿」という属性との対比で,容姿以外の「性格」などの別の属性が必ずしも「良い」と言えないといったニュアンスを含むことになってしまいます。

普段何げなく使っている日本語ですが,突き詰めて考えてみると,いろんな分類研究がなされているものだと,感心しました。

 

健康診断の結果

先月の健康診断の結果が返ってまいりました。

一部,悪いところもありましたが,概ね良好で胸をなでおろしております。

日常の中でできる健康管理方法といえば,①睡眠,②食事,③運動の三つが柱になるのではないかと思われます。

このうち,③運動については,コロナ禍の今,どうやって運動のスペースや時間を確保するのかという問題に直面している方も多いのではないでしょうか。

コロナが始まる前は,スポーツジムに通っていた同僚なども,コロナ以降は感染予防のためにジム通いを控えているようです。

自室内の自重トレーニングなどで,鍛え上げている同僚もおりますが,ジムで行っていたような厳しいトレーニングを,自宅で一人で行うことは,相当な意思の力が必要になりそうです。

私には,肉体鍛錬に向けてそこまで強い意思を持続させる自信はありません。

強い意思がなくとも,習慣的に取り入れられる運動不足解消法として,最近気づいたのが,エレベーターを避けて階段で移動することのメリットです。

エレベーターは,密室となるので,コロナ感染予防の意味でもメリットがあるように思います。

弁護士法人心の本部の事務所はビルの4階から8階まで上下に広がりがあり,朝出社するときに階段を上ったり,業務時間中に違うフロアに行くために階段を上り降りすると,ちょっとした運動になります。

初めのころは,8階まで一気に上がると足が震えるぐらい筋肉が疲労しましたが,人間というものは,習慣の生き物であり,最近では,特に苦痛なく歩いてあがれるようになりました。

健康診断

弁護士に限らず,どの仕事でもそうですが,仕事を続けていくうえで基礎となるのが健康です。

ということで,今年も,10月に健康診断を受ける予定になっています。

健康診断の前には,どういう診断を受けるのか,メニュー表のようなものが配布されます。

健康診断というと,尿検査と血液検査とバリウム,レントゲンというようなオーソドックスなものをイメージするのですが,

最近では,アレルギーチェックやピロリ菌の検査,体のさび付き具合のチェックまで追加料金を払えばできるようです。

学生の頃は,病院など風邪をひいてから行くところというイメージが強かったのですが,

仕事をしてみると,実際に,体調を崩して病院に行く機会よりも,

予防のために病院に行く機会のほうが,むしろ多いのではないかと思います。

このように,健康診断を事前に受けたり,予防注射などをしたりという形で,病気になる前から病気を避ける行動をとる医療を,

予防医療というそうです。

弁護士のあつかう業務についても,よく似た視点から整理されることがあります。

弁護士の業務は,もともと,法律的なもめごとが起きてから相談をうけて,裁判等を解決するという流れが中心です。

他方で,このような紛争解決業務とは別に,予防法務という考え方もあります。

これは,そもそも法律的なもめごとが起きないように,契約を結んだりする際に,事前に弁護士に相談をしておくというものです。

会社経営などでは,顧問弁護士と密に相談をしながらプロジェクトを進めて行ったり,

社内に弁護士を雇用して社内のコンプライアンス態勢をととのえたり,あるいは,契約書チェックを徹底したりというような活動が,

予防法務の典型的なイメージではないかと思います。

個人の方が直面するような,交通事故や離婚などの問題については,そもそも法律的な観点から予防というのは難しいかもしれませんが,

個人の方でも,例えば,相続でトラブルが起きないようにしっかり遺言を準備しておいたり,遺言執行者を確保しておくなど,予防法務が機能しやすい分野もございます。

いつの日か,普通に1年に1回健康診断を受けるような感覚で,特にトラブルが起きていなくても,

法的トラブルを予防するために,弁護士に相続等の相談をするのが一般化してくれば良いのになと思いながら,

健康診断の通知を眺めておりました。

心理的瑕疵について

今年は,梅雨の雨が長く続きましたが,8月に入り晴天が続き,道を歩いていても,どこかからドライヤーの風を吹き付けられているのではないかという,暑い日が続いております。

どうも,こういう暑い季節には,昔から,怪談話や心霊番組が流行るようです。

怖い話をきくと,ゾッとして少し暑さを忘れるということなのかもしれません。

基本的に,我々,弁護士の仕事は,法律という近代的合理性精神の結晶のようなものを取り扱う仕事ですから,怪談や心霊とは縁遠い仕事です。

例えば,相続の案件などで,亡き父が夢枕に現れてこのように述べたから,これを遺言として遺産分割をしてくれといった訴えは,裁判では到底認められません。

ただ,怪談話と法律との境界線上に位置づけられる話もあります。

例えば,不動産取引(売買も賃貸も両方を含みます。)における,心理的瑕疵に関する話です。

たしかに,心霊の存在が科学的に証明されているか否かという問題は別として,

「この部屋では,去年,入居者が自殺した。」,あるいは,「殺人事件があった。」などといわれると,

ちょっと,そういった場所に住みたいと思えないという気持ちがします。

純粋に,合理的に考えるのであれば,「心霊は科学的に証明されていないのであるから,その存在を前提にした言動や仮説は不合理であり,

仮に,自殺や殺人があった場所でも,遺体の撤去がなされ,清掃・洗浄・消毒がなされていれば,その他の不動産と何ら変わるところはない。」といった,割り切った態度をとることもできそうです。

しかし,少なくとも,私には,そこまできれいさっぱりと割り切ることはできません。

おそらく,大半の方が,頭で考えることと,感情のレベルで不快に感じることとに,一定の齟齬を抱えながら生きているはずです。

そのため,心霊がいるとかいないとか,そういう次元の話はさておくとして,

「普通,そんなことがあった部屋だと,通常は誰も好んで住みたがらないよね。」と思うような事情のある部屋は,

実際に,売買価格や賃料収入の減少が起こるわけです。

これが,いわゆる「心理的瑕疵」といわれるものです。

裁判例などでは,心理的瑕疵は,「単に買主において,その事由の存する家屋の居住を好まぬというだけでは足らず,さらに,進んで,それが,通常一般人において,その事由があれば住み心地の良さを欠くと感ずることに合理性があると判断される程度に至ったもの」と定義されています。

ここで,重要なのが「通常一般人」が基準の話だということです。

裁判所は,なにも自殺や殺人があった場所は心霊現象が起きる確率が高いから不動産価値を低く見積もろうといっているわけではありません。

裁判所が言っているのは,仮に,心霊を信じることが不合理であるとしても,多くの人がそのような不合理な感情を抱き行動をし,その結果,家賃の低下や不動産価値の減少が生じるのであれば,そのような人間の不合理さを前提に,自殺や殺人のあった不動産の価値を見積もるほうが合理的だという話です。

その考え方自体は妥当だと思いますが,「通常一般人」を基準に「住み心地の良さ」を欠くというのが,どのレベルのものなのかは,非常に判断の難しい問題です。

裁判例などをみていると,当該不動産の性格(戸建てなのか,土地なのか,マンションの一室なのか)や,心理的瑕疵が生じた態様(自殺か他殺かや,具体的にどのように亡くなったかなど),事件からどのくらいの年月が経過しているか,途中でその部屋に住んだ人がいるか否か,その後の近隣の風評などはどうなっているかなど様々な事情を考慮して,心理的瑕疵といえるか否かを判断しているようです。

 

 

新型コロナとオフィスの立地の動向について

先日,新聞で,渋谷などの東京都心でのオフィスの空室率が上昇しており,

将来的には賃料にも下落圧力が加わるのではないかという記事を読みました。

その理由として,新型コロナによって,在宅勤務の増加などの働き方を見直す動きの影響もあるのではないかといわています。

たしかに,IT企業など,比較的在宅勤務などに切り替えがしやすい業態では,

フットワーク軽く,新しい働き方を見据えた,オフィスの変更などもできるのかもしれません。

他方で,リモートワークに切り替えは難しいだろう業種も多数存在します。

第1次産業や第2次産業は当然ですし,小売業なども,レジに立つスタッフが必要になります。

サービス業などでも,最近,感染拡大の要因として名指しされることの多い「夜の街」関連の仕事などは,

リモートでは成立し難いと思われます。例えば,自宅で,1人お酒をのみながら,リモートのモニーター越しに,

ホストクラブのホストが盛り上げてくれるようなサービスがあったとして,誰がそのサービスにお金を払うでしょうか?

そして,弁護士業務もリモートワークには馴染みにくい仕事の一つであり,どうしても,簡単に在宅勤務に切り替えるというわけにはまいりません。

まず,事件に関する記録ファイルなどはセンシティブな個人情報の塊ですので,気楽に自宅に持ち帰るというわけにはまいりません。

たとえば,家に記録を持ち帰り,その記録を配偶者や子供が読んで,ご近所さんや学校でうわさ話になれば,

守秘義務違反の問題が生じます。

また,出廷の問題もあります。裁判の際には,裁判所に直接出頭しなければなりません。

裁判所は,たいていの場合,その地域の都心部に設けられていますので,

リモートワーク前提に郊外にオフィスを移転すると,出廷の労力が大きくなり,業務効率が低下します。

多くの弁護士事務所が,裁判所の周辺に軒を連ねているのも,出廷の負担を軽減するということが大きな理由です。

さらに,依頼者との相談等の問題もあります。

たしかに,電話相談やメール相談など,相談の方法も多様化してきていますが,直接面談義務が問題となる債務整理の案件などでは,

来所相談を相談者にしてもらわないといけませんし,交通事故の事故状況などは,依頼者の方と一緒に事故現場の図面などを見ながら聴き取りしないと,思わぬ誤解をしてしまう恐れもあります。

このように,弁護士事務所も,なかなかリモートワークで業務を終わらせることが難しい業態ですので,

引き続き所内での感染予防に留意しながら,業務を続けていきたいと思います。

弁護士法人心のコロナウイルス対策についてはこちら

新型コロナの動向と弁護士業務について

一度は,落ち着きかけているようにみえた新型コロナについて,最近,また不穏なニュースが続いております。

一昨日の時点で,東京では過去最高の220人を超える感染者が確認されたようです。

前回の緊急事態宣言の際には,弁護法人心の社内でも,支店間で移動して立ち入ることのできる範囲を制限するなど,

様々な社内規制を行いました。社員の検温や業務時間中のマスク着用,勤務スペースの窓の開放などの対応は,現在も継続しております。

裁判等の予定も,前回の緊急事態宣言の際には,軒並み延期となり,最近,ようやく裁判所に足を運ぶ回数が回復してきていただけに,

その矢先の,感染拡大のニュースは先行きに大きな不安を感じさせられるものでした。

ニュースなどをみていると,ブラジルなどでは,経済活動を優先して営業制限等は行わない方針を大統領が推進しているそうです。

大統領自らが新型コロナウィルスに感染しても,経済優先の姿勢を崩していないようです。

また,スウェーデンなどでは,いわゆる「集団免疫」という考え方に基づいて,厳格な行動制限は行わない方針をとっているとも聞きます。

私の知識は,テレビのニュースで聞きかじった程度のものですので,不正確な点が多分にあると思いますが,新型コロナウィルスに対する対応については,各国で,かなり個性があるのだなと,興味深く思いました。

ただ,日本で,このような極端な経済優先策や,集団免疫作戦を実行できるかというと,相当難しいのかなという感想をもっています。

新型コロナウィルスの致死率については,様々な統計があるようですので,確定的なことはいえませんが,以前,WHOの発表では5%~4%程度とされていたと記憶しております。検査から漏れたまま回復した感染者もいれば,コロナと確認されないまま死亡した感染者もいるはずですので,正確なパーセンテージは確認のしようがないように思いますが,各国の感染確認者数と,死亡者数をみていくと,概ね,数パーセント程度となっているようです。日本でも,令和2年7月9日現在の数字をみると,2万人強の感染が確認され,千人弱の死亡が確認されているとのことですので,死亡者/感染者=5%弱となります。

ある社会が集団免疫を獲得するには,人口の70%程度が感染を経験して免疫を獲得する必要があるとききます。

日本の人口は1億2000万人台の半ばですので,わかりやすく1億人の70%で計算したとすると,7000万人が新型コロナに感染する必要があることになります。

そして,仮に致死率を5%とすると7000万人のうち5%の350万人が死亡する計算になります。

第2次世界大戦の日本の死者数は210万人~310万人程度と計算されているようですので,350万人もの死者となれば,

第2次世界大戦以上の死者数をだした未曾有の大災害ということになります。

また,仮に,現在の10倍程度は確認されないまま回復した感染者がいて,なおかつ,コロナによる死者はすべて把握できていると仮定し,実際の致死率は0.5%程度であると仮定して計算しなおした場合でも,人口の70%が感染した場合には,死者数は,35万人以上に上る計算になります。

35万人という数字も多すぎて,イメージがつかみにくいですが,

例えば,最近の日本の交通事故による死亡者数は年間で5000人を下回っていますので,35万人という数字は,交通事故死亡者を70年間積み重ねてもまだ届かない莫大な死者数ということになります。

過去に,交通事故が交通戦争といわれる程,社会問題となった時でさえ,交通事故の死亡者数は年間で1万7000人程度ですから,35万人という死亡者数がけた外れにおおきなものであることがわかります。

致死率が,上記試算の100分の1と仮定して,0.05%と仮定しても,人口の70%が感染すれば,3万5000人以上の方が亡くなることとなります。

それでも,日本の1年間の自殺者と交通事故死者数を合計した数字よりも,さらに1万人程多い数字になります。

こういった,試算をしてみると,集団免疫に期待して過度に経済を優先する政策というのは,それに伴う死者の数があまりに大きくなる恐れがあって,到底社会のコンセンサスを得られないのではないかと思われます。

したがって,このまま新型コロナの感染再拡大がつづけば,何度でも,緊急事態宣言や自粛が繰り返されることにならざるをえないのだろうかと,先行きに大きな不安を感じます。

 

 

弁護士の仕事と日本語文法について

弁護士の仕事は,とにかくたくさんの「言葉」を使う仕事です。

顧客から事実関係を聴き取るときも,裁判所に提出する書面を書くときも,事務所内で同僚弁護士と事件の処理方針を議論するときも,

毎日,膨大な量の音声又は活字で「言葉」を使います。

その際,いちいち細かな日本語の文法などは意識しません。自然と,口をついてくる表現を言葉にしていきます。

そして,私は生まれも育ちも日本ですので,基本的には日本語の文法に従って話したり書いたりすることができます。

たいていの場合,日本語の文法で迷うことはありません。

しかし,普段はあんまり使わないけれども,誰かが使っていることは聞いたことがある表現については,

自分が使いたいと思った文脈で本当に使っていいのか,不安になるときもあります。

たとえば,「~されたし。」または「~されたい。」という表現があります。私は,裁判書面などで,参照して欲しい箇所を適示する際に,「~については,甲〇号証第〇頁〇行目を参照されたい。」などと書いたりすることがあるのですが,この表現は,弁護士になりたての頃に先輩弁護士が使っているのを見て,格好いい表現だなと思って真似して使うようになったもので,文法的に正しいのかどうかなどあまり深く考えたことはありませんでした。

ただ,ふと考えてみると,ここに登場する「されたい」は,「愛されたい」,「信頼されたい」,あるいは,「お前,殺されたいのか!?」といった文脈で使う「されたい」とは意味が違うはずです。

後者の例は,受け身表現ですが,前者は尊敬の意志をもって相手に何らかの行動を促す意図で使います。

ただ,言葉としては同じ「されたい」ですので,この違いは文法的にどうやって説明したらいいのだろうか,ひょっとしたら,自分の使い方は間違っていなかっただろうかと不安になりました。

しっかり調べてみると,「参照されたい」というときの「されたい」は,「参照する」の「する」という動詞部分が,未然形の「さ」に活用され,そこに助動詞「れる」の未然形の「れ」,願望の助動詞「たい」の終止形「たい」がついたということのようです。

未然形とか,学校で昔ならったなと懐かしく思いつつ,ひとまず「参照されたい」という言葉遣いが間違いではないようだったので安心しました。

ただ,結局のところ助動詞「れる」には,受身・可能・自発・尊敬のすべての意味があるそうなので,「~されたい」という文章は,そこだけをみても,意味を特定できないのだとわかりました。なかなか,あらためて文法的に自分の使っている日本語を省みてみると,まるで,外国語のような難しさを感じます。

ところで,話は変わりますが,弁護士法人心の支店として,新たに四日市法律事務所を開設することとなりました。

四日市が最寄のお客様は,是非お気軽に,弁護士法人心四日市法律事務所までご相談ください。

これからも,できるかぎり皆様にとって身近な法律事務所となるよう励んで参りたいと思います。

四日市法律事務所について,より詳細な情報をお求めの方は,

以下のリンクから,四日市法律事務所のホームページを訪れていただければ幸いです。

弁護士法人心四日市法律事務所

 

 

 

 

 

 

ゴールデンウイークの過ごし方について

今年は緊急事態宣言もあり,旅行どころか近所のスーパーに買い出しに行くことすら控えめのゴールデンウイークになっております。

おそらく,私以外の多くの方も,同様に自粛の日々を過ごされているのではないかと思います。

最近は,このような自粛生活をどうやって楽しく乗り切るか?というテーマのテレビ放送を多くみるようになりました。

ペットと遊んだり,料理に凝ってみたり,友人とZOOM飲み会をしたりなど様々な,無聊を慰めるアイディアが紹介されています。

アウトドアや友人と出かけるのが好きな人にとっては,さぞかし退屈な日々なのではないかと思いますが,

私のように,もともと,家にこもって本を読んだり調べ物をしたりするのが好きな人間にとっては,自粛生活もそこまで苦にはならないなと感じています。

特に,弁護士の仕事を始めると,日々勉強の連続ではあるのですが,

あくまで,目の前の仕事を解決するのに必要な知識を調べながらなので,

体系的に一つの分野の本を通読したりすることが,意外に難しくなります。

例えば,相手方の銀行預金の差押えをするために民事執行法の本の該当箇所を確認したり,

外国籍の方が破産の申し立てをする場合には,日本国籍の方の場合とは別に,追加で裁判所に提出する資料は何かあるのだろうかと思って,

破産手続きの関係の本を開いたり,

こういった,目の前の仕事を解決するために日々,本をたくさん読むのですが,

学生時代のように,例えば伊藤眞先生の「破産法・民事再生法」を通読してみようというような,いわゆる腰を据えた勉強時間というのは,

なかなか確保するのが難しいものです。

今年のゴールデンウィークは,自粛で家にこもって本を読む時間がたっぷりとありますので,

久しぶりに,学生時代に戻った気持ちで,腰を据えた勉強をしてみようかと思います。

司法試験の延期について

4月も半ばを迎えようというこの時期というのは,弁護士などの法律家を目指す学生にとっては,

少し特別な時期です。

司法試験は,毎年5月に行われています。

令和2年の司法試験も,5月13日から5月17日まで,間に1日の休日を挟む5日間の日程で予定されていました。

昨日,新型コロナウィルスのために,緊急事態宣言がだされ,その前には東京オリンピックも延期されていたので,

今年の司法試験はどうなるのかと思っていたところ,

今日の夕方のニュースで,法務省が今年度の司法試験の延期を発表したということを知りました。

オリンピックの延期の際に,「選手は4年に一度のこの機会に人生をかけているのだ。」というようなコメントを,

テレビ番組の出演者の方がおっしゃっているのを拝見しましたが,

司法試験も受験生にとっては,司法試験は1年に1度の人生をかけた勝負の場になります。

試験まで残り約1か月のこの時期は,例年であれば,受験生にとっては,最後の追い込みと調整の時期になります。

感染拡大の状況を考えると,必要かつやむを得ない措置だとは思いますが,

今年の司法試験受験予定者の気持ちを考えると,同情の気持ちを覚えます。