白黒のテレビを見て思い出したこと

新型コロナウィルスの流行以来、休日は家でテレビでも見て過ごそうかということが増えました。

ここ何週間かは、テレビでオリンピックの放映がありましたので、見飽きるということがありませんでした。

最近の、テレビの映像は、驚くほど進歩していて、360度カメラやドローンなどをつかって、選手の息遣いや、現場の臨場感を伝えてくれます。

翻って考えてみると、昭和の東京オリンピックの頃には、まだ、普通の家では白黒テレビが一般的だったと聴きますので、隔世の感があります。

テレビを見ていると、オリンピックの記録映像などで、ときどき、白黒の記録映像が流れていることがありますが、私が、子どものときには、すでにどこの家庭でもカラーテレビがありましたので、白黒のテレビというのは、むしろ新鮮に感じられます。

ところで、弁護士として仕事をしていると、ある事実や証拠から、どうやってその他の事実を立証するかという難問に直面することがよくあります。

「Aという証拠があるから、Bという事実があったはずだ。」、あるいは、「Aという事実からは、Bという事実があったと考えるのが自然である。」という、推論の過程を裁判でも良く使います。

テレビで流れる白黒の映像を見ていて、こういった「ある事実や証拠から、他の事実を推測することの難しさ」に、私が人生で初めて気が付いたときのことを、ふと思い出しました。

私が、3歳か4歳の頃だったと思いますが、生まれてからずっとカラーテレビしか見たことのなかった自分が、偶然、白黒の旧い映像がテレビで放送されているのを見ました。

幼い自分には、いつもは色のついているテレビが急に白黒になったのが不思議で、これはなぜなのか、父親に尋ねると、父親かはら「これは、昔に撮影されたテレビだから白黒なのだ。」と答えが返ってきました。

その答えをきいて、私は驚いたのですが、そのとき、私が思っていたのが、自分が生まれる前の昔の世界には、そもそも「色」というものが存在していなかったのかということでした。そして、だとしたら、いったいいつからこの世界には「色」が与えられたのかということを疑問に思っていました。

大人になった今の自分からみれば、なんともおとぎ話のような誤解なのですが、子どもの頃の自分の頭の中にあった推論の過程をきちんと言葉にして整理すると以下のようになるはずです。

「テレビに映る映像は、実際に自分が目で見ている世界と同じような風景である。そして、大人は、みんなテレビのニュースで流れる映像をみて、あんなことがあったこんなことがあったと話をしている。だとしたら、テレビの映像は、実際に目で見ることのできる世界を正確に記録しているのだろう。そして、昔のテレビに映されている映像が、白黒の映像なのだったら、この映像が映された当時の世界は、実際に白黒だったのだろう。」

これはこれで、一つの推論の過程としては、理屈にはかなっているように思います。

もちろん、昭和の東京オリンピックが開催される遥か昔から、世界には「色」が存在していたはずであり、子どもの頃の私の理解は、明らかに誤解なのですが、この推論にきちんとした反証をしようと思うと、それなりに、いろいろ考えなければなりません。

例えば、技術的な観点からは、テレビを撮影する際の録画器材の発展の歴史について説明し、色付きの映像を撮影できるカメラと、白黒映像しか撮影できないカメラの二種類があるという事実を挙げる必要があります。

あるいは、テレビが発明される前の時代の文献にも、「色」に関する言葉は存在していて、人々が「色」を認識していたと考えられるというような、反論も可能かもしれません。

もっと原理的な説明をしようと思えば、人間が色を認識するのに必要な、光の波長や眼球と脳の構造などについて説明し、それらが、昔から変わっていないということを説明するのも、有効かもしれません。

いずれにしても、このように、同じ事実や証拠を目の前にしても、前提や背景にある知識がことなっていれば、推論の向かう方向が180度異なってしまうことは、しばしば起こる現象です。

特に、裁判などの専門性が求められる世界では、こういうことが良く起こります。

例えば、法律や裁判例の動向について詳しくない方からすると、一見すると「自分にとって有利だ」と思える証拠が、

実際には、裁判例の動向や裁判官の経験則を踏まえると、むしろ、不利な証拠として評価されてしまうということもあります。

東京オリンピックをみていて、自分も、証拠や事実の評価を見誤らないように、新しい裁判例の勉強など、疎かにしてはいけないなと、気持ちを引き締め治すきっかけになりました。