令和6年4月1日から、障害者差別解消法という法律に重要な改正がありましたので、今回はそのことについて紹介させていただきます。
障害者差別解消法は、正式には「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」という名称の法律です。
この法律の立法趣旨は第1条に記載されていますが、その目的とするところは「障害を理由とする差別の解消を推進し、もって全ての国民が、障害の有無によって分け隔てられることなく、相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。」と書かれています。
この法律は差別の解消を目指す法律ですが、この法律なかには「差別」というものの定義はかかれていません。
内閣府のホームページで紹介されている、その他の法令等のなかで「差別」というものがどのように定義されているのかをみると、「正当な理由なく障害を理由とする不利益な取扱いをすること又は社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしない」ことといった内容で定義されていることが多いようです。
この定義をみると、いくつか興味深いポイントがあることに気づかされます。
第1点としては「不利益な取り扱い」について「正当な理由なく」といった修飾語がついていることです。理由もなく障害者だからという理由で取扱いに区別を設けることは許されないということです。他方で、「正当な理由」に基づく取扱いの相違は許容されています。例えば、自動車の運転のように一定水準以上の視力の存在が必要であり、なおかつ、視力の不足により事故が発生した場合大きな被害が発生するような分野において、視力に障害がある人に自動車運転免許の取得を認めなかったからと言って「差別」に当たるとは言われないというような話です。
ただし、どのような事情がある場合に、どの程度の取扱いの差を設けることが許容されるのかという問題は、非常に難しい問題です。実際にはこの「正当な理由」の有無の判断は非常に悩ましい場合が多いと思います。
第2点目としては、「合理的配慮」が欠けていることも「差別」の一類型として挙げられていることです。
「差別」という言葉をきくと、「お前らは嫌いだ、あっちへ行け」といって石を投げつけるような、積極的な社会的廃除をイメージしてしまいますが、法律の言葉の世界では、「差別」というのはもっと幅の広い概念として使用されており、本来尽くすべき合理的な配慮を尽くさない消極的な態度も時として「差別」と評価されることには、注意が必要です。
今回、法改正が行われたのはこの合理的配慮に関する部分であり、一般企業である事業者(飲食店、旅客運送業、映画館など業種を問いません。)に対して、これまでは努力義務とされていた「合理的配慮」を、法的な義務としたことが、法改正の内容となっています。
法8条2項には、「事業者は、その事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をしなければならない。」ということが定められています。
法律で使われている言葉、どうも堅苦しくて結局何が言いたいのかわかりづらいことも多いので、内閣府が作成したこの法改正に関するパンフレットを参照しながら、もう少し詳しく紹介すると、まず、基本的な理解として「日常生活・社会生活において提供されている設備やサービス等については、障害のない人は簡単に利用できても、障害のある人にとっては利用が難しく、結果として障害のある人の活動などが制限されてしまう場合があります。このような場合には、障害のある人の活動などを制限しているバリアを取り除く必要があります。」という問題意識が示されています。
この「バリア」というのが、法律でいうところの「社会的障壁」に当たります。そして、合理的配慮というのは、お店側の過剰な負担にならない範囲で、こういったバリアを取り除くよう配慮を求めるということです。
具体例としては、飲食店などで車椅子のまま着席できるように、椅子の配置の変更をすることや、聴覚障害の方とのやり取りのために適宜筆談などを交えて接客するなどが合理的配慮の具体例として紹介されています。
ただし、最終的には、どの程度の負担をすることが「過重な負担」になるのかといった点は、実際に現場判断では迷う点も多いと思います。
結局、不利益な取り扱いにしても合理的な配慮にしても、実際のところ現場で知恵を絞って、「正当な理由」の有無や「過重な負担」かどうかを判断するしかないのだと思われます。
この「合理的配慮」や「過重な負担」について考えるうえで、障害者差別解消法に関するパンフレットの中で紹介されている内容のなかで、多くの人に広く知ってほしいと思った考え方があります。
それが、障害の社会モデルという考え方です。
「障害者」のための社会福祉というと、あたかもそこに「障害者」と「健常者」とが全く異なる集団であるかのよう考えそうになります。
しかし、障害の社会モデルという考え方では、「障害者」と「健常者」とされる人たちとを異質な存在とは考えません。障害の社会モデルでは、「障害」というのは、「障害者」とされる方の精神や身体の特徴だけの問題ではなく、むしろ社会の側に、様々な障壁があることによって生じる問題だと考えます。
パンフレットで紹介されている事例としては、2階に上がるのに階段しかなければ、車椅子の人は「障害」を抱えていることになるけれども、スロープやエレベーターが整備されていれば「障害」はなくなるという例が紹介されています。
私にとって、もっと身近な例で考えると、私は視力が非常に悪いですが、眼鏡やコンタクトレンズで矯正することでなんの「障害」もなく今の社会で生活をすることができています。しかし、例えば将来、資源の不足などで、眼鏡やコンタクトレンズが購入できない社会になった場合には、私はもしかしたら「障害者」になってしまうかもしれません。
このように、障害の社会モデルでは、世の中に「障害者」と「健常者」という別々の二つの集団があるのではなく「障害」というのは、個人の個性と社会の状況が接触し衝突するなかで生じる現象にすぎず、社会の在り方が変われば、それにあわせて「障害者」と「健常者」の範囲はいくらでも柔軟に変わっていくものだと考えることになります。
社会の変わり方によっては、今は「健常者」と呼ばれている人も明日には「障害者」と呼ばれるようになるかもしれないし、反対に「障害者」と呼ばれる人が「障害」を抱えなくなることもありえるわけです。
私が、この障害者の社会モデルに魅力を感じるのは、この考え方が非常に前向きな考え方に思えるからです。
障害者福祉を考えるうえで、「障害者」と「健常者」を別の存在だと分けて考えてると、障害者福祉とは「健常者」が「障害者」を助けてあげる制度なのだというような感覚に陥りそうになります。そして、「障害者」側から、障害者福祉の拡充や、職場やサービス施設などでの配慮や負担を求められると「ずうずうしくないか?」「このくらい我慢すればいい問題ではないか?」というように、「障害者」側を責める発想にもなってしまいそうです。特に、今回の法改正の中で義務化された「合理的な配慮の提供」でも、配慮を求められる側の立場からすれば、それが「過重」かどうかにかかわらず、一定の負担は生じるわけですから、「健常者」が「障害者」を助けてあげるのだという発想で考える限り、配慮を求められことに「負担だ。迷惑だ。」という反感が生まれてしまうのではないかと思います。
これに対して、障害の社会モデルという考え方で「合理的な配慮」について考えた場合、同じ社会に属する仲間の中の、どの範囲の人が「障害」を抱え、どの範囲の人が「障害」を抱えないのかは、社会の側がどこまで配慮して障壁を取り除けるかの次第であるという発想になります。
人の感じ方や考え方は人それぞれですが、私としては「合理的な配慮」について考えるときに「なんで『障害者』のためにこちらがこんなにも負担をしなきゃいけないんだ?」というような気持ちになるより、「どのように社会が変わっていけば、少しでも多くの社会の仲間が『障害』を抱えずに暮らせるだろうか?」と考えた方が、気持ちのうえでも健康にいられそうですし、建設的なアイディアが生まれてくるように思います。
これは、あくまで理想論であって、実際の現場にたって「合理的配慮」を考える際には、お金も時間も人でもすべてが限られたなかで、判断を下さなければならないので、「過重な負担」だとおもってやむを得ずお断りしたサービスについて、「合理的配慮」にかけた障害者差別だと非難されてしまって、憤りを覚えるなど、一筋縄ではいかない問題がたくさん生じるものと思われます。
私自身も、弁護士としての仕事をするなかで、本当に正しい判断を下せるのか不安もありますし、こちら側が合理的と思える範囲を超える配慮を求められたときに、感情的な反発を感じてしまうこともあるかもしれません。
こういう割り切れない問題は、最終的には、現場で葛藤する中でしか答えは出ないだろうと思います。
ただ、そのようなときに「障害の社会モデル」という考え方は、自分の中の思考を整理するうえで有益な考え方になるのではないかと思いますので、ぜひ多くの人に知っていただきたいと思い紹介させていただきました。。